とある人からあるとき、
「誰かが俺の時間を泥棒してる気がする」
との被害届を受けとったことがあります(火サスBGM)
そのとき脳裏によぎったのが、
エンデ作『モモ』というドイツの児童文学。
副題(?):
時間どろぼうと
ぬすまれた時間を人間にとりかえしてくれた女の子のふしぎな物語
当然、表紙の画像を送ってあげました。
とはいえ私も『モモ』については、
大学生のとき授業で映画版を見ただけだったので
(そしてその授業もたぶん寝ていて記憶ないので)
どんなおはなしだったのだろうと読んでみることに。
3月18日に読了しました。
遅れましたがそのときの感想を書いていきますね。
まず例の副題(?)からして、
モモと〈時間泥棒〉との対決が主軸だと思っていたのですが
実際にモモが彼らから時間をとりかえすパートは2/21章で
意外にも“人間が時間を奪われるまで”の描写が丁寧です。
ミステリーの世界では「序破急」という言葉がありますが、
『モモ』のストーリー展開にもこれに似たものを感じました。
「時間どろぼう」とか「ふしぎな物語」とか書いていますが、
蓋を開けてみるとおそろしいほど現代社会の縮図。
児童文学の顔をして哲学書のようなことが扱われている。
さらにエンデのあとがきにはこんな一文。
わたしは今の話を、過去におこったことのように話しましたね。
でもそれを将来起こることとしてお話してもよかったんですよ。
どちらでもそう大きなちがいはありません。
(実物が現在手元にないので他所からの引用、正確性難あり)
後者、確実に後者ですよエンデ先生(絶望)。
人々は〈時間泥棒〉たちにまんまと騙され、
自由な時間欲しさに別のものを節約していきます(=失う)。
仕事への愛情、人とのコミュニケーション、そして心のゆとり。
おこりっぽい、くたびれた、おちつきのない人間。
そこに描かれる人々の姿は「誰か」にとてもよく似ています。
私も、あなたも、誰もが「誰か」と姿を重ねてこわくなります。
「いつもただ次のことだけ」を考え
「たのしければ、仕事がうまくはかどる」と言っていたベッポ。
彼も(モモのためではありますが)1年で変わってしまいます。
それはまるで、
妻(夫)と子供との生活のために寂しい想いをさせながら
それでも仕事にあけくれてしまう「誰か」のように見えて。
「ジジはジジだ」と冗談とホラ吹きで陽気に暮らしていたジジ。
彼ですら1年で心苦しいほどに変わってしまう(見てられない)。
それはまるで、
好きなことを好きなだけ好きなようにやっていたはずが
パターン化され抑制され個性を失った「誰か」に見えて。
モモは作中で時間を「一種の音楽」と言いました。
音楽にはストレスを解消する効果もあるそうですね。
時間が音楽のひとつなら、それはきっと、同じことで。
時間も音楽も流れるもの。
「聞こえる」のではなく「聴く」ことで得られるもの。
表向きは児童文学に位置づけられていますが、
大人になってから読むことで見えてくるものがあります。