自己紹介が苦手です。
自己分析が苦手といったほうが適切でしょうか。
自分が説明できないのです。
自分がわからないわけではない、と、思います。
何が好きで何が嫌いで…というのはわかります。
ただ、実際に訊かれると、答えられないのです。
好きなものは本当に「好き」と言える程度なのか。
嫌いなものは本当に「嫌い」と断言できるのだろうか。
それは自分にとって、また、相手にとって正解なのだろうか。
自分でも結構信じられない話ですが、
人と会話をするとき息をするように嘘をついています。
「昨日〇〇なことがあってさぁ」実際はわりと創作です。
子供の頃から人を選ばず無意識に創作話をしています。
オオカミ少年とは違う、と、思っています。
人を騙すのがおもしろいわけではありません。
自分には人に話すようなことが本当に何もないからで。
「昨日〇〇なことがあってさぁ」何もないのです。
何をしたのか、何を思ったのか、話せることが何もないのです。
あるのかもしれないけれど、言おうとすると、わからなくなるのです。
自分はどんな人間なのか。
自分は普段どんなことをしているのか。
中脇初枝先生『わたしをみつけて』読了しました。
あの娘さんには、ばれていた。
わたしが、だれが死のうと、なんとも思わない人間だということが。
(中略)
わたしは、なんとも思わなかった。
両親に捨てられた過去を持つ看護師の弥生が、
師長や患者との出会いをきっかけに成長していく物語。
弥生を成長させるのは、彼女自身なのか、それとも…。
こんなことをしても、わたしをすきでいてくれる?
こんなことをしても、わたしを捨てないでいてくれる?
「名づけは親の最初の暴力みたいなものだし。」
師長は続ける。
「つけられた名前で生きていかなきゃいけないんだから。」
断ることができることを、わたしは知っている。
でも、断ったことはない。
断れないのは、悪意をもたれたくないから。
(中略)
こんなときでも、わたしは見捨てられたくない。
こんなやつにさえ、わたしは見捨てられたくない。
医療現場を舞台にしながらも、
訴えかけてくるテーマはシンプルでわかりやすく、けれど、難しい。
児童虐待、医療問題、そして「自分はどうしたらいいのか」――。
表紙には花瓶に活けられたタンポポの写真。
人は植物に似ているのではないかと思いました。
植物は成長するために水・日光・土などが整った環境が必要で。
それは人間が親・友達・家などの環境下で暮らすときも同じことで。
植物は一度そこに根を生やしてしまえば動くことができない。
植物に似ているのなら、人間もまた、同じことなのでしょうか。
「ほんとの自分なんてね、なんだっていいのよ。
そんなのないと言ってもいい。
仮面をかぶって三十年もたてば、それがほんとの自分。」
植物の根は地面の下へ伸びていくもの。
人間の足はどうでしょう、これは、地面を蹴って走るもののはず。
自分が「何者」なのかは結局のところ人間が決めていて、
創造主たる神は実際一人ひとりに言いまわってはいないのです。
他人が勝手に決めていいなら自分で勝手に決めたっていいわけです。
あるもので適当に、そう、夜食でも作るのと同じ感覚でいいじゃないですか。
自己紹介は苦手です、が。
自分がとても面倒くさがりなのは知っています。
〈本当の自分〉なんて得体の知れないもの探すだけ面倒だから。
わからないならわからないままどうもしなくていいんじゃないかと。
何をしたのか、何を思ったのか、正直に「わからない」と話そうと。
きっとそれが「わたしをみつけて」と呼んでいた、私の、声の主。