中学生のとき、
級友から〈納豆おじさん〉なる人物の話を聞きました。
なんでも、
彼はパックの納豆を携帯していて
下校時にあらわれては女子生徒に
納豆を投げつけてくるのだとか。
私は結局〈納豆おじさん〉を見ないまま
中学校を卒業してしまったのですけれど、
未だに〈納豆おじさん〉以上に変な人の
話なんて人生で聞いたことがありません。
最高に意味わからないです。
女子高生に生卵投げつける不審者よりわからないです。
子供の頃は納豆が嫌いだったのでなんとも思いませんでしたが、
今はただ「食いものを粗末にするなよ」と彼には言いたいです。
というわけで今回は“変”なおはなし。
ミック・ジャクソン氏『10の奇妙な話』読了です。
***
命を助けた若者に
長くつらい人生を歩んできたゆえの
奇怪な風貌を罵倒され、
心が壊れてしまった老姉妹。
屋敷の敷地内に薄暗い洞窟を持つ
気まぐれな金持ち夫婦に雇われ、
“隠者”となった男。
“蝶の修理屋”を志し、
古物店で見つけた手術道具を使って博物館に
展示されている標本の蝶を蘇らせようとする少年。
襲来した宇宙人に
音楽教師がさらわれたと信じ込み、
市役所に押しかけて調査するように
要求する子供たち。
家の近くの丘で掘り出した骨を集めて
ネックレスを作る穴掘り好きの少女。
――日常と異常の境界線を越えてしまい、
異様な事態を引き起こした人々を描く、
奇妙で愛おしい珠玉の短編集。
※あらすじは表紙折り込み部分より引用しました。
***
雰囲気としては、
たとえるならドラマ『世にも奇妙な物語』にて
だいたい2話目にやるようなおはなしです(?)
日常系の変な話、とでもいいましょうか。
こういう小説って大好物なんですよねぇ。
個人的に気になったところは、
全10篇ほとんど主人公というかメインキャラが
少年少女だったりおじいちゃんおばあちゃんで。
しかもこのおじいちゃんおばあちゃんに萌える!
今回は全10篇の中から、
個人的におもしろかった3篇の感想を書きました。
他に『ピアース姉妹』や『蝶の修理屋』なんかも
疾走感があったり幻想的だったりでオススメです。
下も参考に気になったらぜひ読んでみてください。
眠れる少年:
2篇目に収録されています。
絶えず訪れる眠気によって日常と異常の
境界線を越えてしまった少年のおはなし。
雰囲気としては、
以前読んだ『地球の中心までトンネルを掘る』。
人生のどこかでつまづいてしまった人(少年)を
寓話的というかふんわりと繊細に描いています。
なにかの拍子にふとタイミングの見逃してしまうと、
大人の入れものに子供をつめたような人間になって
そしてそのままいきなりポイと社会に放りだされる。
正しい大人のなり方がわからなくて。
大人の形をした子供の自分が奇妙で。
少年の不安を描いた最後のシーンは、
共感できる人が少なくないのではないでしょうか。
同じものは1つとして作れないというのは万物共通です。
自分の成長速度や必要な栄養素を知って、
自分のペースで、よく学び、よく考える。
大切なことはきっとそれだけ。
地下をゆく舟:
3篇に収録されています。
定年を迎えたモリス氏が次に打ちこんだのはボート作り。
出来上がったボートが彼を乗せて辿りついた場所とは?
ボートは大きく頑丈そうで、がっしりとしている。
ゆっくりと振り向き、階段の上に視線を向ける。
ふと、地下室のドアがひどく小さく見えた。
ボートへと視線を戻す。モリス氏はあんぐりと口を開けた。
苦々しい涙がその両目ににじんだ。
え、やだ…モリス氏かわいい(※定年したおじいちゃんです)
このおはなしは、
物語全体がまるで“人生”を模しているようでした。
(そう考えると主人公がおじいさんというのも納得)
たとえば、
ある人はモリス氏にこのように言います。
「ここでは皆離れて過ごすのが普通なのですが、
もしご一緒したくなったらお手をお振りなさい」
私はこれ、
私たちの“人生”というものをとても端的に、
シンプルに表現してる言葉だなと思いました。
あの場所はある意味〈理想郷〉なのかもしれない。
モリス氏という人物はちょっと不器用な人間で、
人生に常に1つの歯車しかはめられないのかも。
だから日常が変わってしまうことが怖くて、
ボート作りを思いついたらそれに執着して。
これからはあの場所で、
好きなこと・思いついたことはもうなんでもやる。
彼にそんな人生を過ごしてほしいなと思いました。
宇宙人にさらわれた:
6篇目に収録されています。
退屈な授業中にある少年が妄想した宇宙人の存在。
彼の妄想は子供たちへ次々と伝播し大人を翻弄する!?
他のおはなしとちょっと毛色が違って感じました。
このおはなしには妙にリアリティを感じるんです。
実際どこかで本当に起こりうる話のような気がして。
他のおはなしは主人公たちが“異常”側に
取りこまれていくようなイメージでしたが、
ここでは子供たちが自ら進んで“異常”を
選んでいるように見えたという点も理由の1つです。
訳者あとがきによると、
本作の原題は『10編の哀れな物語』だそう。
原題で考えるとこの場合哀れなのは大人たちですね。
市長やボーウェン先生が気の毒に見えるか。
子供たちが羨ましくてわくわくしてしまうか。
読者がどちらの気持ちで読むかで印象が変わりそうです。
私は正直ボーウェン先生がひたすらかわいそうだなと(笑)
心底素直に言うとすれば、
彼らにとっていちばん腹立たしかったのは、
自分たちの少年時代にはこの半分もわくわくする
ようなできごとがひとつも起こらなかったという
ことなのである。
半ば呆れながらも子供たちにとことんつきあってくれる
大人たちは優しいな…と思えるようになったのも自分が
大人になったという証拠なのでしょうかね(´・ω・`)
あるいはくだんの〈納豆おじさん〉も、
ひょんなことで日常と異常の境界線を
越えてしまった奇妙な彼らの1人だったのかもしれない。
いや、そうだとして。
彼は一体なにがあって納豆を投げつけるという
異常に取りこまれてしまったというのでしょう。
今頃は彼も改心して、
納豆を美味しく食べるまともなおじさんになっていますように。