みなさんは、
自分の一番古い記憶ってなんでしょう?
私は幼稚園の運動会で父にふっとばされたことですね。
タイヤ引きみたいな、
園児たちはそれぞれ縄のついた横倒しのタイヤに座って
お父さんに縄を引っぱってもらってゴールへむかう競技。
私の父は開始と同時に勢いよく縄を引っぱったのですが、
力を入れすぎてタイヤが傾いて私は後方にすっとびました。
しかも数メートル先まで気づかぬ父。
気合入れて走っているところ悪いけど、娘、落ちてますよ。
未だにあのときの父の背中だけ覚えています。
尻が痛いことより気づいていないことにむせび泣いた。
ときどきネタにして
父と2人でゲラゲラ笑っています。
ちなみにその次に古い記憶は、
ブランコに乗っていてうしろに落ちて頭を打ったことです。
視界がブラックアウトして気がついたら職員室にいました。
コイツいつも落っこちてるな。
というわけで、
今回は記憶のおはなし。
清水杜氏彦氏『わすれて、わすれて』読了です。
今年も清水氏で読書納め
この荒廃した世界では、
理不尽な暴力で大切な人を奪われることもしばしばだ。
強盗に妹と両親を殺された少女リリイは、
「リリイ・ザ・フラッシャー」と綽名される、
早撃ちで有名な国一番の銃の使い手。
そしてその親友カレンは、
記した事柄を忘れることができるふしぎな本〈ダイアリー〉の持ち主だ。
その本は、
クリニックを営むカレンの家に代々伝わるもので、
医師だったカレンの祖父や父親によって、
忘れられない辛い記憶に苦しむ人々のために秘密裏に使われていた。
しかし、
クリニックを継げなかったカレンの叔父が、
〈ダイアリー〉を狙い、
悪い仲間を集めて父親を殺してしまった。
幸い〈ダイアリー〉は奪われなかったが、
復讐を誓ったカレンは、リリイを用心棒に誘い、
大型バイクに二人でまたがって、
国の各都市に散らばった、父を襲った犯人たちを探す旅に出る。
ひとりずつ憎い仇を痛めつけ、
〈ダイアリー〉を用いて仇の復讐された記憶を消すのだ。
そうすれば、
そこで復讐の連鎖は途切れるはず、だった……。
※あらすじは早川書房のHPより抜粋しました。
http://www.hayakawa-online.co.jp/shopdetail/000000013331/
去年(2015年)最後に読んだ本は
前作『うそつき、うそつき』でしたが、
奇しくも今年最後の読書も同氏の本になりました。
読了した日付もなんとピッタリ一緒です。すごい。
前作同様、
ジャンルとしてはディストピア小説ですが
文脈から察するに前作よりもあとの時代が舞台のようです。
昔話として語られる程度なので未読でも問題なさそうです。
前作との大きな相違点として、
今作はかなり読みやすくなったなと感じました。
設定やキャラクターがシンプルだからだと思います。
清水氏の作品が気になっている方はこちらから入ってもいいかも。
少女がバイクにまたがって旅をするシチュエーションは
時雨沢恵一氏の『キノの旅』を思いださずにはいられませんが、
残念ながらこちらのバイク(名前はハリケーン)はしゃべりません。
エルメスみたいに人格?があるとしたら
ハスキーボイスでクールビューティーだろうなって、
とりあえず勝手に妄想だけはふくらませておきます。
ちなみに『キノの旅』は読んだことがありません。
なぜかPS2でゲームはやったことあるんですけどね。
というかあれゲームというか完全に“聞く小説”だったな。
罪と記憶
罪の終わりは一体どこなのでしょうか。
犯人が罪を認め、
改心したとしたら、それで、終わるのでしょうか?
死刑制度や時効など、
それはとてもデリケートで難しい問題だと思います。
肯定は被害者を苦しめ、また、否定は社会秩序が機能しない。
親(大切な人)をある事件によって亡くしたことで、
誰も殺したくないと思うようになった少女・リリィ。
犯人は皆もれなく殺すと復讐を誓った少女・カレン。
2人の少女は、
正反対のようでとても似ていて。
罪を前にしたときの人間の心情を
端的にあらわしているように見えました。
かなしみはいずれ薄れる。苦しみも消える。
人間はわすれることができる生き物。
(中略)
でも悔しさとは、憎しみとは、簡単には共存していけそうにない。
リリィのいうとおり、
無情にも悲しみや苦しみはいずれ時間とともに
やがてはぼんやりとゆるやかに薄れていきます。
一方、
悔しさや憎しみがそうもいかないのは
私はそこに覆せない“事実”があるからだと思うのです。
事実というのはある種の記憶です。
「こうだった」と記憶した時点で、
それがその人にとっての“事実”になります。
ところで、
記憶というものはそれほど重要なものなのでしょうか。
朝目覚めたときのあなたは昨日のあなたでしょうか。
同じ記憶をもつもう1人の“あなた”がいたとして、
彼(彼女)はそれなら同様にあなたなのでしょうか。
記憶をすべて失ったらあなたはあなたでなくなるのでしょうか。
思考実験の本を読んでいると、
しばしばこのような問題に突きあたります。
もちろん犯罪を助長したり擁護するつもりはありません。
ただ、
被害者やその周辺の人々が記憶によって悔しさや憎しみの檻に
閉じこめられてしまうなんてあまりに理不尽ではありませんか。
忘却は信念に寄り添って働いてくれます。
もちろん世の理不尽には対抗すべきでしょうが、
そのために自分が汚れる必要はないし、
生き方を変える必要もないのです。
誰かを憎しみながら生きるというのは、
誰にだって、つらいことで、苦しくて。
足かせとなってしまうようであれば、
事実を“記憶”の1つとして今一度、
今度は冷静に多角的に見つめなおす機会があってもいいと思うのです。
わすれて、わすれて、そこにあるもの。
人によって捉えかたは違うと思いますが、
私は今作の結末は(も)絶望エンドだったと思っています。
むしろフラノよりしんどい終わりかたをしているリリィ…。
彼女の独白で語られる言葉とは裏腹に、
彼女が選んだ行動からは読者を、いえ、
自分自身すらをも突きはなすような絶対的な距離を感じて、
彼女がというよりは読者である私が一方的に絶望を感じる。
舞台は監視社会、暴力の国、ときました。
次作ではどんなディストピアが描かれるのでしょうね。
暴力の国も次作では昔話として語られるようになるのかな。
前作の感想記事でも
タイトルについて触れたので今回も最後に触れておきます。
今作の『わすれて、わすれて』。
今回2回「忘れて」をくりかえしているのは
・意図的に忘れること(ダイアリー)
・人は意思に関係なく忘れてしまうものだということ
この2点を意味しているのではないかと思いました。
彼女はこれからも、
意図的にも無意識にもあらゆることを忘れていく。
だけど、それはきっと、寂しいことではないのです。
わすれて、わすれて。
そうしてふるいにかけて最後に残ったものが、
彼女に安息を与える幸福の記憶でありますように。