先月、“サイン本”というものを入手した。
念願だった、知念実希人氏の『天久鷹央の推理カルテⅤ 神秘のセラピスト』のサイン本。当ブログではシリーズ第1弾から追いかけているおなじみの作品。過去に二度ほどチャンスはあったものの、二度とも惜しくもタイミングがあわなくて、今回も買えないだろうなーと思いつつ行ってみたら、あった。もう即レジ。
それからしばらくして、積んでいた順番的にそろそろアレ読むか!と腰をあげた矢先、とある問題に気がついてしまった。
私は「いい!」と思った言葉があるページには節操なくドッグイヤーをしてしまう使いこみタイプの読者なのだけれど、あ、ちょ、え、これサイン本だよ…?世の中には自分用・保存用・布教用と同じ本を3冊買う猛者がいるって聞いたことあるけどサイン本しか買っていないのかと。買ってないよ。なにそれどこのセレブ?
そもそもサイン本とはどうあるべきなんだろう。
\保存するに決まってるだろ!/
超わかる。でも、ちょっと待って。
たとえば、知人に相談したとき彼は「気にしなくていいんじゃない?」と言っていた。サイン本だって〈本〉なのだから、せっかく買ったのに読まずに丸々保存というのは、携わった出版社や印刷会社の人たちも気の毒ではないかと。
私の読書に多大な影響を与えた千田琢哉氏『人生で大切なことは、すべて「書店」で買える。』には、
本に人格があるとすれば、本が一番喜ぶのは美しく保管され続けることよりも実際に持ち主の役に立てることだと思います。
(千田琢哉『人生で大切なことは、すべて「書店」で買える。』P185/L2より引用)
とある。また「著者になってみて気づかされたこと」として、
付箋だらけでボロボロに読み込まれている本を片手にした読者との出逢いは、特に大切にしたいな、と思います。
(同P185/L7~8より引用)
とも。
結局、あのとき購入したサイン本にブックカバーをかけて、普段よりちょっと丁寧めに、でも普通に、天久鷹央シリーズ最新刊読んでいる。
作者のサインというのはファンにとってもちろん価値のあるものだけど、この価値というのはあくまでも付加価値。本来は「敬愛する作者が生みだした本」それだけで十分な価値のはず。もっと親しみをこめてサイン本とつきあってもいいのかもしれない。
2017年10月31日に加筆修正しました。