森晶麿『黒猫の回帰あるいは千夜航路』を読了。『黒猫の薔薇あるいは時間飛行』から書きはじめた歴代の記事を読んでもらえばわかるとおり、黒猫シリーズは毎回内容が高次元すぎて私ごときが感想を述べるのは至難の技なので、「完結」と聞いて惜しむ反面どこかで安堵している自分がいます。…あ…「第1期完結」なの…へぇ…そ、そうなんだ…。第2期がはじまっても感想が更新されなかったときは察してください。
黒猫シリーズは短編集向き
パリで大規模な交通事故が発生。深夜、そのニュースを目にした付き人は、恩師からの思想継承のため渡仏した黒猫の安否が気になっていた。一年前、イタリアで二人の距離が縮まったと感じたのは勘違いだったのか……メールへの返事もなく、落ち着かない気分のまま朝を迎えた付き人は、大学院の後輩・戸影(とかげ)からペルシャ美学の教授が失踪したと連絡を受ける。黒猫のことが気になりつつ、付き人は謎を追うが――シリーズ第6弾。
※あらすじは早川書房webサイトから引用しました。 |
こうした明確に「短編集」といえる短編集は件の『黒猫の薔薇あるいは時間飛行』以来でしたっけ。これくらいの長さが難解なポォの作品解釈パートにはちょうどよくて前2作品(長編)よりも読みやすかった。ただ一方で謎はシンプルめ。何話かは序盤で「ああ、こういうことだろうな」と予想できてしまったのが残念でした。このシリーズこんなにオチが先読みできるシリーズだったっけ…?
個人的には第三話と第六話が好きです。エピローグは素敵だったけど特別掌編4編は蛇足のように感じたのは内緒。
以下、各短編の感想をまとめました。
過去を乗り越える、あなたと。
第一話 空とぶ絨毯
黒猫との約束を胸に博士研究員となった付き人。寒さにも一区切りがついた早春の夜、パリの街路で自動車が爆発事故を起こし、通行人十数名が命を落としたというニュースが大々的に報じられる。パリには黒猫がいる。安否が心配になった付き人は彼にメールを送るが返信はなく……。翌日、後輩の戸影から教授が失踪したと聞いた付き人は黒猫の安否に不安を抱きながらも真相を追うことに。 |
遅刻魔の知人がいて、私はよく、待たされる。
寝坊や急な仕事で1時間、下手したら3時間以上待たされることもザラだけど、慣れました。最近は前日からもう時間つぶし用に脱出ゲームアプリをダウンロードしたり対策をしています。相手が遅刻すること前提。遠足前日みたいな謎のワクワク感を感じはじめたらプロ。
私は感情の制御が下手くそなので最初のうちはめちゃくちゃイライラしました。冷めきったコーヒーをちびちび飲みながら、会ったらどんな罵声を浴びせてやろう、って想像をして落ちつかせたり、会って3分ぐらいは口を利かず「反省しろ!」と無言の圧をかけるような真似をしたり。だけど機嫌がなおったころに思いかえすと、これすごく時間を無駄にしている…って後悔する。この3分間でカップラーメンつくれたじゃん。ブタメン食べたい。
小柴教授の件と同列にならべるにはしょぼすぎるかもしれないけれど、黒猫が最後に言ったことってつまり私たちにとっても身近な真実なのだと思う。過去や未来のことを考えるのはときにロマンチックであるいは絶望的だったりするけれど、それだって、今日という前提がなければ成立しない。
遅刻を責めたって時間は戻ってこない。それなら、世界線が移動してプライベートタイム突入!ボーナスステージ!喫茶店で読書しようかな、カラオケ行こうかな、美術館見てこようかな…うひゃあワクワクする!――と割りきったほうが有意義に過ごせるのでおすすめです。
「そうだよ!(弾ける笑顔)」
遅れてやってきた相手は反省する気がまったくなかった。
第二話 独裁とイリュージョン
黒猫のもとに、学生時代の同期・ミナモが訪ねてきた。かつて黒猫を振りむかせることに執着していた彼女が語りだしたのは、通勤のため部屋を間借りしているある人形作家のアトリエでミナモを模した人形が突如なくなってしまった――という奇妙な“なぞなぞ”だった。ミナモから解放された黒猫は、戸影、そして付き人との飲みの席でこの謎のあらましと真相を語りはじめる。 |
第一話よりもするする読めた印象。獅子唐が食べたい。
人はどうして革命を前にすると躊躇してしまうのだろう。成功か失敗か、確率は1/2でしかないのに。躊躇してそこに留まるあなたは、誰から見ても、悲しそうなのに。
理屈を言うのは簡単だ。一歩足を踏みだすのにも燃費がかかる。その点、足を止めてしまうのは、一瞬だし、エネルギーも必要ない。失敗すれば悲しみは変わらない。いや、それ以上のしっぺ返しをくらうかもしれない。だったら、このぬかるみに浸かっているほうがマシじゃないか。
希望の影には不安が潜み、諦観のそばには安寧がある。言葉というのはなんて皮肉なのでしょう。
「……雑用かどうかは本人の心掛け次第だと思うよ」
(P58/L16より引用)
だけど、言葉は世界の理ではなく、本当は我々が持ちうる選択肢だということ。それに気づけないまま言葉に縛られてしまう人は少なくない。1/2の確率が偉大なる革命か単なる博打か、決めるのは、自分自身のはずなのに。そういう意味では言葉もまた、目に見えない〈独裁者〉なのかもしれません。
第三話 戯曲のない夜の表現技法
唐草教授に誘われて、黒猫とともに劇作家・鞍坂岳を偲ぶ会に出席した付き人。曰く、彼には生前“新作”の構想があったようなのだが、主演を務めるはずだった女優・今利麻衣によると、それらしい原稿はどこにも遺されていなかった、とのこと。「あとちょっとです」と言った彼の言葉は嘘だったのか。謎に惹かれた付き人と黒猫が話を促すと、彼女は語りはじめる。
「あれは今日みたいに溶けそうに暑い夏でした」
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おもしろかった。鞍坂氏の“新作”の謎が解き明かされたときはちょっと泣きそうになっちゃった。
以前、アイドルはその存在そのものが1つの物語であるという記事を書いたのだけれど、このおはなしでよりこの主観は強まりました。事実は小説より奇なり、とはよくいったもので、台本のないところにこそ真の物語は生まれるのかもしれない。
言葉は人なのだ。
(P138/L9より抜粋)
それにしても、言葉は独裁者、と思っていた矢先にこのおはなし。今作は各短編の順番も巧く計算されているように感じます。
ところで私は普段、登場人物や設定に意味を見出す前にまず物語へダイブして生の感情に身を任せる。ここをベースに物語の解釈へ紐づけていく…というイメージで感想記事を書いているけれど、うーん、単なる個人的な「感想」って読者への有益な情報につながっているんだろうか。黒猫シリーズを読むといつも自分の文章や感性に自信がなくなってしまいます。もっとだ、もっとがんばらなければ。
第四話 笑いのセラピー
黒猫の姉・冷花は、美術館で個展を見た帰りに公園でばったり弟が恋する相手〈付き人〉に会う。「弟さんは私のことなんか……」自分を卑下する彼女は相手の気持ちがわからないことを怖がっている。そんな彼女を見て遠い日に思いを馳せた冷花は気がつくと話しはじめていた、あの日の、“過ち”のこと。 |
文章を読んだ感じ、作者は柔軟に受けとめているようだけど、私は芸人がマルチにあちこち手を出すのはあまり好ましくないと思っています。一度その道と決めたからにはそこを極めるのが〈芸〉だと思っているから。もちろん趣味でやるぶんには自由だと思うけど。一途な人が好きなの。
謎に関しては、さすがに無理があるような。どうしても言いたいので白字で軽度のネタバレしますが【 工↑場↓と口→上↑って決定的にイントネーション違くない? 】
過去を乗り越える、というテーマは第一話~三話までのおはなしにも関わってくるし、あるいは本書全体で抱える大きなメインテーマなのかもしれない。構成、やはり考えられているなぁ。
また「運命」もこのおはなしにおいてテーマの1つとなっていますが、私は残念ながら運命を感じた出会いってないなぁ。なんていうか、出会ったあとで一心不乱に縁を育てて、その月日の経過をあとになって眺めたとき運命を実感するというか。運命にするというか。運命をつくるというか。自給自足。
第五話 男と箱と最後の晩餐
明日から開催されるシンポジウムに招待された黒猫と付き人は会場となる徳島へむかうため豪華なクルーズの最中にいた。恋人と最終航海に来た、と語る奇妙な男のことを黒猫に話すと、彼は乗船時に大きな箱を抱えていただけで恋人が一緒にいるようには見えなかったと言うが――。 |
海を汚すな。
いや、おはなしが気にくわなかったとかそういうわけではないのですが、読了後まっさきに思ったのがこれでした。乙矢氏ごめん。そういうつもりはなかった。謎としてはむしろおもしろかったほう。ただどうしても海側の気持ちを考えてしまって。
だけど世の中には散骨というのもあるし気にしたら負けかな。母が死んだら散骨よろしくって常々言っているのだけれど、正直そうなったら環境を心配する気持ちが邪魔して素直に弔えないと思う。なかなか魅力的ですけどね、散骨。……で、なんの話でしたっけ?
第六話 涙のアルゴリズム
ラテスト教授の訃報を受けてパリへ旅立った黒猫。付き人は彼の代理で大岡山での試聴比較実験に立ち会うことに。現代ジャズシーンを席捲する弓月馨が24時間で作曲した新曲と、AIが8分でつくりあげた新作との比較を行うのだという。実験に立ち会った者はおおむね弓月の勝利を確信していた。ところが、当の弓月は2曲を聴き終えると声を殺して泣いていて――。 |
個人的には印象に残った話。まぁオチは序盤からわかりきっていたけど。
ジュリアン・バジーニ『100の思考実験』(向井和美/訳)の中に「自然という芸術家」という思考実験があります。まとめると、
学芸員のストーンはヘンリー・ムーアという芸術家のとある彫刻作品を敬愛しているのだが、じつはこれがムーアの作品ではないとを知る。誰もがムーアが彫ったものに違いないと思っていたそれは人の手ではなく風と雨――自然によって形づくられたものだった。事実を知ったストーンはすぐさま展示からそれを外したが、事実が判明したところで彼女が惹かれた特徴はなにひとつ損なわれていない。石そのものが変わったわけでもない。ならばなぜ来歴が石そのものに対する評価をこうも変えてしまうのだろう。
という、〈芸術と芸術でないものとをどのように区別するべきか〉を問う思考実験なのですが。
芸術に価値を見出すのは受け手であって、作者は人間であれAIであれ、ただ、生みだすだけだと思う。受け手の中にある決定的な美の観点があれば、本来「人間」と「AI」どちらによる作品であるかはあまり意味がないことのはず。
石を芸術品にするのもAIが作った曲を名曲と捉えるのも、実際に触れた者が決めればいいことだし、その感性を誰かがとやかく言ってはいけないと思うんですけどね。研究として見るときはそうもいかないのでしょう。芸術を学問として捉えたときの途方もなさ。だけど、そこにたまらなく惹かれる自分もいる。
解体の解体 - トートロジーまたはマトリョーシカ
森氏の作品は作風が合わないとかでもないのにやたらと感想が書きづらく、毎度なんでかなぁと頭を抱えながら書いているのですが、ここにきてようやくわかってきました。解体の解体だからだ。
作品のテーマはすでに作中で黒猫や付き人によって解体されていて、わざわざそれについて感想を書くという行為はトートロジーではないのか。しかも作品に補足できるほど上質な感想であれば問題ないけれど、私の感想なんて月とすっぽん。うんと小さな模倣品。マトリョーシカ。そうだ、これはマトリョーシカに似ている。
この作品の特色と劣等感が書きづらさを生んでいたのでしょう。第1期完結と同時に長年の疑問が解決。第2期からはやっぱり陰でこっそり読むことになりそうです。