山白朝子『私の頭が正常であったなら』を読みました。奇妙系に仕立てたゴーストストーリーというほうがしっくりくるけど、作者は怪談専門誌出身だそうだし、ジャンルは「ホラー小説」のくくりでいいのかな。奇談というだけにとどまらず、結末の先に想いを馳せたり、登場人物たちの些細な言動にも考えさせられる粒ぞろいの作品ばかりで不思議な読み心地がクセになる1冊。超好き。
洗練されていくアルビレオ探知機
突然幽霊が見えるようになり日常を失った夫婦。首を失いながらも生き続ける奇妙な鶏。記憶を失くすことで未来予知をするカップル。書きたいものを失くしてしまった小説家。娘に対する愛情を失った母親。家族との思い出を失うことを恐れる男。元夫によって目の前で愛娘を亡くした女。そして、事故で自らの命を失ってしまった少女。わたしたちの人生は、常に何かを失い、その哀しみをかかえたまま続いていく。暗闇のなかにそっと灯りがともるような、おそろしくもうつくしい八つの“喪失”の物語。
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最高すぎない?
例のごとく表紙に惹かれて手にとりました。最高。
ホラー小説または奇談としてのアプローチが幅広く、あらゆるツボを刺激してくれ
とくに、表題作になるだけあって「私の頭が正常であったなら」というタイトルの巧さには目を見張ります。
それでは以下、収録作品8篇のあらすじと感想を記していきます。本当は、この手の小説は物語としておもしろくても具体的になにがどうおもしろかったのか感想を言葉にするのが難しくて「読めばわかる」の一言に尽きてしまうんですけどね。そうもいかないのでがんばって書きます。
明日起こるかもしれない喪失の奇談
世界で一番、みじかい小説
家内と暮らすマンションで先日から“3人目”の人影を見るようになった〈僕〉。疲れているのだろうか。あるいは心の病気か。家内に相談すると、彼女からは「私も見る」とじつに冷静に返事が返ってきた。心霊現象の再発防止のため、2人はデータ収集や実験を重ねながら幽霊の正体を探ることに――。 |
しょっぱなから不気味な幽霊が出てきますが、妻の千冬さんが笑ってしまうほどクールな理系なので、前半はシュールな雰囲気、後半はカチッとしたミステリーとして楽しめました。だけど彼女がどうしてこういう役まわりなのか――その背景を知ると切ない。
「まずは彼の出現パターンをしらべてみましょう。心霊現象の再発防止に取り組んでみるから」
(P13/L6~7より引用)
日々の心霊現象に精神を蝕まれていく夫を看病しながら千冬さんが言うの、頼もしすぎない?頼もしさのベクトル旦那の意思からめちゃくちゃズレまくってるけど。たぶんこの夫婦はGが出現したときも夫が第一発見者で妻が冷静に退治してる。そういうパワーバランス。これは萌える。
ちゃんと出現パターンを調べて表計算ソフトでリストをつくったり、自分たちではなく物に憑いているのではないかと実験を試みたり、幽霊を観察してみたり。心霊現象に対するアプローチや幽霊の分析が現実的で、日常を保ちながら非日常にふりまわされる話の運びかたはかなり新鮮。ラストに明かされる、彼がなぜ夫婦に憑いたのかという真相も理論がしっかりしており、おもしろかったです。
首なし鶏、夜をゆく
転入したてでクラスになじむことができずにいた〈僕〉は、あるとき、雑木林の中で同じくクラスで孤立している女の子・水野風子を見かける。彼女は「京太郎」を探しているらしい。そのとき突然、足元で音がしたかと思うと、そこには首から上の一切がない奇妙な鶏があらわれて――。 |
見てはいけない光景を偶然目にしてしまって、結局、最後までばっちり見届けてしまったような…そういう背徳感というか罪悪感というか、胸のあたりがざわざわする読後感。昭和、ジャパニーズホラーといった趣を感じるのもゾクゾクします。
竹垣にかこまれた家の敷地をぐるぐるとさまよっている姿は、まるで、うしなった自分の首を捜しているようだった。
(P55/L4~5より引用)
山田胡瓜『AIの遺電子』という漫画(2巻・第15話)にヒューマノイドの幻肢痛のエピソードがあるんだけど、この一文はあれを彷彿とさせる。そこにあったはずのものを無意識に捜してしまう感覚、私は、歯科治療のあととかにあるなぁ。親知らずを抜いたのもう何年か前だけど、未だに抜いたあとの空間、気になってしまう。
心ってどこにあるんだろう。頭(脳)にあるのだとしたら首なし鶏の京太郎には心がなかったことになるのだろう
酩酊SF
小説家の〈私〉の元に大学時代の後輩Nから「相談したいことがあるんです」と連絡が届く。話を聞くと、どうやら彼は〈酒を飲んで酩酊すると、酩酊が終わるまでの範囲で過去や未来が見えてしまう女〉というアイディアで主人公が金儲けをする物語を書きたい、ということらしいが――。 |
Nくんには申し訳ないけれど完全に喜劇として読んでしまった。ごめん、口悪いけど、Nくんちょっとナチュラルクズじゃない?サイコパス?
前半の一幕はゲーム「STEINS;GATE」を思わs…というかほぼほぼ「STEINS;GATE」でした。もしかしてオマージュ?それとも時間SF界では定石なの?
そもそも“酩酊する”という行為自体、時間や記憶がブツ切りになるような心地がするものなので、「酩酊SF」とはよくいったものですね。今知ったふうに書きましたけど実際には記憶が飛ぶほど酔ったことがないのでわかりません。部分的に記憶がなくなるってどういう感覚なんだろう。
布団の中の宇宙
長いあいだスランプに陥っていた小説家仲間のTさんが、ある日、とある文芸誌に新作の短編小説を発表した。もうこのまま出版界から消えてしまうかもしれないと危惧されていたTさんの変わらない筆致に興奮した〈私〉は彼に連絡をとり、後日会うことになるのだが、そこで彼から不思議な布団の話を聞く――。 |
本書にはちっとも関係のない話ですが、アイディアが生まれやすいのはBar、Bathroom、Bus、Bedの「4B」だそうですよ。ちょっとだけ日常を離れてくつろげる場所がいいそうです。
小説家にかぎった話ではないし、月並みな言葉だけど、夢は叶ったところがゴール
小説家を夢見ていた頃、小説の書きかたを勉強しているときにどこかで「書きたいことを作品にすべて書いてしまってはいけない」ということを知って感銘を受けました。あれもこれも作品に反映させてしまうと必ずどこかに蛇足が生まれるし読者が想像する余地がなくなってしまう。Tさんの創作活動は厳密にはこれとは違いますが、なんていったらいいんだろう、書くべきものと自分の中に大切にしまっておくべきものとの分別がつかなくなってしまったように見えました。創作はここのバランスが難しい。
彼はこの不思議な布団との出会いを喜んでいたけれど、私は、出会うべきではなかったのではないかと思ってしまいます。
子どもを沈める
高校時代よく行動を共にしていたクラスメイトたちが、ことごとく自分の子どもを殺している。結婚した〈私〉の元にそのうちの1人から送られてきた手紙には、娘が、かつて自分たちが自殺へ追いこんでしまった少女に異様に似ていたという奇妙な話が綴られていた。〈私〉が子どもを産んで自分と同じ目にあわないかと彼女は危惧したのかもしれない。しかし〈私〉のおなかにはすでに――。 |
本書の中で個人的にもっとも印象に残っているけれど、感想を言葉にするのが難しい作品です。
まれに、前世の記憶を持ったまま生まれてくる子がいる、とは聞くけど。Aさんの中にBさん(前世)のはっきりした記憶があるなら、じゃあAさんはBさんなのかというと、それは違う。だから仮に生田目さんの魂を引きついで生まれてきたのだとしても娘の中にあるのはまぎれもなく娘本人の意思であって――?ほらぁ~、自分でもわからなくなってきた。
そもそも彼女が娘として生まれてきた100%生田目さんだったとしても、復讐のために〈私〉たちの子どもになって生まれてきたわけじゃない
愛情を注ぐべき自分の子が、何か得体のしれないものに感じられてくる。
(P132/L14~15より引用)
自分の子ではないような感覚――子は親を選べないというならば、やりきれないけれどその逆も然りで、
トランシーバー
津波で最愛の妻と息子を失った〈俺〉は、震災から2年が経った頃、酩酊していた最中にザーという音を耳にする。半壊した自宅から回収した、かつて息子と一緒に遊んだおもちゃのトランシーバー。突如電源が入ったそれをながめて酒を飲んでいると、ねむりにつく直前、ノイズのむこうに息子の声が聞こえてきて――。 |
アキさんの全編にわたる言動も、〈俺〉の「ありがとう」という言葉の裏にあった決心も、息子に「めー」したナツミさんが抱いていたであろう寂しさや願いやさまざまな想いも、胸がぎゅーってなってダメだ。メンタルがもたない。優しさの暴力。読んでいるあいだはヒカルくんの無邪気さに少しは救われるけど、いいか、物語が終わってからが本番だ。耐えろ。私は耐えられなかった。
殊にアキさんは強い。誰にでもひとりになる時間は必要だということ、物事のあらゆる境界は曖昧で自分が決めるしかないのだということ、そういうことがわかっている。わかっているだけじゃなくて言動に反映できている。人の大切なものを自分も一緒に大切にすることができる。こういうふうにふるまえる人間でありたい。
真面目な感想のあとに書くのもなんですが、「トランシーバー」と聞くとSEKAI NO OWARIの例のあれを思いだすけど「Dragon Night」発売年よりちょっと前のおはなしなので〈俺〉もヒカルくんもトランシーバーは普通に持って話していたっぽい。読むときは例のあれを連想しないように。こちらからは以上です。
私の頭が正常であったなら
逆上した元夫に、目の前で娘を道連れに道路で自殺された〈私〉。三年間の入退院の末、抗精神病薬を服用しながら実家で療養していたある日、〈私〉は川のほとりを散歩している途中でかすれたような女の子の声を聞く。「たすけて」幻聴であるならば問題はない。けれど、もし私の頭が正常であったなら――。 |
開幕早々すさまじい鬱展開で言葉を失う。
逆上した元夫が娘を道連れに目の前で自殺――心身に影響があっておかしくない状況の中で、自分が異常であることを真摯に受けとめて、そのうえで冷静に分析する〈私〉の誠実さ。彼女を異常とするのなら、いったいなにがこの世界の正常だというのだろう。
私の頭が正常であったなら……。そんなことを憂慮しなくてはならないなんて皮肉なものだけど。
(P181/L8~9より引用)
元夫の胸糞なエピソードからは彼が明らかに「正しくない」ことがわかるのに、自分は異常であると受けいれてしまう〈私〉には「正しさ」ばかりにこだわらないでほしいと願ってしまう。どちらも等しく個人であるはずなのに。社会において法や規律といった「正しさ」は必要だ、だけど、個人の正しさを測ることははたしてどこまで必要なのだろう。
「正しさ」という言葉は、私たち人間に使うべきではない、向いていない言葉なのかもしれない。暴力と古い固定観念をふりかざすこの男にも、自分の中の異常さを冷静に見つめられる彼女にも、誰にも、正しく扱えないのだから。
おやすみなさい子どもたち
沈没する船の上、足をすべらせ海に投げだされた少女・アナは水中で意識を手放す刹那、これまでの人生の断片的な映像を見る。幼い頃の光景、両親との思い出、恋人とのキス…恋人?恋人なんていなかったのに?気がつくとそこは天界の映画館だった。どうやら天使の手違いで他人の“走馬灯”を観せられたらしい。アナは未だ船上で恐怖におびえている子どもたちを救うことを交換条件に、自分の“走馬灯”を探す手伝いをすることになるが――。 |
ここまで現代日本を舞台にしたストーリーがつづきましたが、最後に異色の作品をもってきました。沈没する大型クルーズ船…モチーフはタイタニック号でしょうか。
走馬灯を映画のフィルムにたとえるのは、私たち1人ひとりの人生は
おやすみなさい、子どもたち。
おやすみなさい、人間。
おやすみなさい、やすらかに。
(P246/L14~16より引用)
最後の書き下ろしになって突然、
おやすみなさい、やすらかに。
焔のような美しさ
先日、東京国立博物館で上村松園「焔」という作品を鑑賞したのですが、源氏物語に登場する六条御息所を描いたとされるその“生霊”は、目元に嫉妬の色を浮かばせながらも髪をつかむ指先や髪を噛む口元にはそれをうわまわる寂しさが見えるようで、息を呑みました。本書の物語と文体からはこの「焔」に似た美しさを感じる。
さまざまなテイストで味わえる8篇の奇談ですが、最後には必ず「
そういえばさっき、おなかの横あたりを肘でつつかれるような感触があったのでふりむいたのですが、近くには誰もいませんでした。触れられた部分を探ってみるとTシャツの繊維表示タグがあったけれど、いやいや、たしかに肘のような硬い感触だった。はっきり感触があったはずだけど、うーん、気のせいだったのかな。こわくはなかったけどなんだか不思議。
あれはもしかして…と考えてしまうのは、やっぱり本書を読んだ影響でしょうか。