甲斐田紫乃『塩見﨑理人の謎解き定理 丸い三角について考える仕事をしています』を読みました。新刊コーナーの棚で見かけて、あらすじの中に「哲学」という単語があった、という理由だけで軽率に買った1冊だったんだけど文体もストーリー展開も思っていたよりずっとやわらかくほのぼのとしたミステリーだった。楽しく読めました。
親しみやすい哲学系小説
「――丸い三角、赤い緑。矛盾の解消が哲学者たる私の仕事だ」大学生の凜香に突如舞い込んできたのは、変わり者揃いの哲学コースでも有名な若き准教授・塩見﨑理人の蔵書整理のアルバイト。海外モデルのような美貌の彼だが、機械音痴で生活力皆無……口を開けば「その発言には誤謬、明らかな誤りが含まれている」と突っ込みを入れる変人で……!? 消えたレポートに、不可解な怪文書。大学で巻き起こる事件の、謎を疑い真理を読み解く、短編連作ミステリー!
文庫裏より |
今読んでる本にフィロソフィー(哲学)は「『知』を意味するソフィア、『愛する』を意味するフィレインという古代ギリシア語に由来」と書いてあって愛知県ってマジ哲学って関心している。
— 麦 (@BLT691) 2018年11月16日
Twitterを見てくださっている方々がもしいたら周知の事実だと思うのですが、私は小説の他に哲学や倫理、思考実験、心理学などの本を読むのも好きで、こういうのは毎晩風呂に浸かりながら読んで湯あがりに今日読んだぶんのノートをとるというのを日課にしています。なので「あらゆる矛盾の解消が、哲学者たる私の仕事だ」などと帯に書かれてしまっては当然読む。
准教授と学生、この組みあわせは森晶麿『黒猫の遊歩あるいは美学講義』からはじまる〈黒猫〉シリーズの主人公コンビを彷彿とさせますが、哲学を用いながらも謎自体は、消えたレポート、芸ができなくなった猫、前部長から託された不可解な暗号に隠されたメッセージ、「真面目」が呪縛となってしまった凛香の過去……と親しみやすい日常的なもので、構成も易しく、またキャラクター小説の趣が強いので本書のほうが読みやすさ・とっつきやすさでは勝ります。
登場する哲学の論題もアキレスと亀、中国語の部屋、メアリーの部屋など、有名どころを扱っているので哲学に興味を持つためのとっかかりとして最適な1冊なのではないでしょうか。「哲学」と聞くと一見高尚な学問のように聞こえがちですが本来は私たちにとってもっと身近なもの。――「誤謬を正せばあらゆる問題は問題でなくなる」という塩見﨑先生の言葉はつくづくそんなふうに感じさせてくれます。
この謎を哲学せよ
第一話 塩見﨑の弁明/火はどこに行ったか
歴史学コースの2年生・寺田凛香は“大事なこと”を質問するため哲学助手室を訪れた。友人の哲学基礎論のレポートが、提出したはずなのに未提出扱いになっており、成績がついていないのだ。事情を知った助手の佐藤とともに彼女がレポートを提出した先――塩見﨑理人准教授の研究室へ赴くと塩見﨑は件のレポートを「蝋燭の火と同じだ」と凛香に語る。 |
提出したはずなのに未提出扱いになった友人のレポート、その真相は“蝋燭の火”とは、ははぁ、恐れいりました。私は凛香ちゃんのような状況になる学生時代を、幸か不幸か、送ったことがないから。……まぁ、そもそも、こんなふうに世話を焼ける友達なんていなかったし?おっとこの話はもうよそう。
かくいう私も高校・大学とデビューを失敗したクチなので凛香ちゃんの気持ちも、友人の美優ちゃんの気持ちも、わかる。「間違えたな」と思っても今さら手遅れだって、諦観して、妥協してしまうんだよなぁ。
「君が生きたいのは、君のために教官に食ってかかってくれる友達に、嘘をついたまま生きる人生なのか」
(P67/L13~14より引用)
本当に大切なことを見失ったまま、さ。
それにしても本当に問題を問題でなくしてしまったから塩見﨑先生はすごいや。分析哲学めっちゃおもしろいな。日常にも応用できそうだし。普通に興味を持ってしまったので小説のつかみとして効果的なおはなしだったと思います。凛香ちゃんは真面目で素直でいい子だし、先生の言葉もいちいち切れ味よくておもしろいし。P66の一連の発言が辛辣すぎて、このとき電車で読んでいたんだけど、普通に吹きだすとこだった。声出して笑ってやりたかったなぁ、電車で読んだのは惜しい。今読み返しても痛快でニヤニヤしてしまう。
第二話 塩見﨑の教示/中国語の部屋
ある日、大学の図書館前広場で友人のひとり・沙智流を見かけた凛香が声をかけると、彼女は大学内でも有名なペルシャ猫の野良猫・ボツラクくんの芸について教えてくれた。曰く、彼は「はい」「いいえ」「どちらでもない」と書かれたパネルを用いてどんな質問にも答えられるという。天才猫だ、と感心していた凛香たちだが、あるときからなぜかボツラクくんは芸ができなくなってしまう。 |
私が通った大学も敷地内を野良猫が何匹か歩きまわっていて、その子たちの面倒を見ているボランティアサークルがあったから、ボツラクくん(ちなみに名前の由来は「没落貴族」っぽいから)や沙智流に親近感を覚えながら読みました。
思考実験の「中国語の部屋」は小説とは別に読んでいる哲学の本でよく目にするので存じていましたが、まさか動物の“芸”と絡めて考えることができるとは思わなかった。目からウロコ。いや中国語。ウチの両親も飼っている犬や猫に甘々でいともたやすくおやつをあげてしまうから水尾さんがボツラクくんを心配する気持ちめちゃくちゃわかる。
動物を飼っていると、この子と話せればいいのに、と思うことは誰にでもあります。あくまで理解しているかのようにふるまっているだけ、という「中国語の部屋」を持ちだすと夢のないヤツだと思われるかもしれませんが、言葉の意味は正確に理解していなくても芸をすることで人間は喜んでくれると彼らが理解してくれている――種の垣根を越えてささやかながらコミュニケーションがとれることのほうがむしろ言葉と言葉のコミュニケーションよりもずっと素敵な関係なのではないかと私は思うのですがね。
「本当は……この子にとって本当に危険なのは、猫嫌いな人じゃなくて、むしろ猫好きな人たちのほうなのかも」
(P96/L2~3より引用)
たとえ長く人と歩んできた歴史のある犬や猫とて、人と動物として保つべき距離があることを、忘れたくはありません。
第三話 塩見﨑の執筆/無限の猿定理
哲学図書室で蔵書点検のアルバイトをしていた凛香は、本棚と床の隙間に、古ぼけた1冊の大学ノートを見つけた。タイトルや名前の類は記されていない。落としものだろうか、と何気なくページをめくってみるとそこには「はいいは」「まきないはみがちつ」など意味不明の文字列が。謎のノートと一緒にひとりきりという状況に耐えられず凛香は塩見﨑研究室を訪ねるのだが――。 |
「この『確率はゼロではない』という言葉自体は、二つの意味を持つ。一つは、『限りなくあり得ない』という意味。猿がタイプライターを叩いたらシェイクスピアの作品の複製が生成される、など、ほぼ『あり得ない』事象といえるからな」
しかし、と彼は続ける。
「『絶対にあり得ないわけではない』という意味もまた、この語には含まれる。それこそどんな砂の山も、掃き続ければいつか消えるように――何度も重ねて行えば、いつか結果に届くことがあるかもしれない。そういう意味も含んでいる」
(P195/L14~17 , P196/L1~3より引用)
無限の猿定理は知らない話だったけど、「限りなくありえない」と「絶対にありえないわけではない」が両立しているというのがなんとも文学的じゃないですか。素敵なおはなしだった。
今回のおはなしは「覆面算」というのがキーになるのですが、再三言っているように、私は算数が苦手だから解くところは本当に読むのがしんどかったです。向井湘吾『お任せ!数学屋さん』のシリーズを読んだときも思ったけど文章で数字を説明するのは本当に難しいんだなと。筆算なんて久しぶりに見た。
籠野さんも魅力的なキャラクターだったけど、加えて、所属していた文学部の方針をめぐって部長と仲違いになってしまったというストーリーがいい。時代は変わるものだから発展していかなければいけないのもわかるし、ここまでの歴史に関わってきた人たちの面子を重んじたい気持ちもわかるもんなぁ。まさに無限の猿定理のように、ほんのちょっぴり悲しさや虚しさと、そして優しさ、プラスとマイナスの感情とが両立したおはなしだったと思います。
第四話 塩見﨑の逃走/メアリーの部屋
学生控室で今日グラウンド場で行われる避難訓練に参加しようと話していた凛香たち。そのとき廊下の奥で佐藤の怒りの声がし、事情を訊ねると、避難訓練で「やってもらわないと困る仕事」があるにも関わらず塩見﨑が『メアリーを外に出してくる』という書き置きを残して消えたという。皆と手分けして塩見﨑を探すことになった凛香だが、道中、かつての親友・清川杏里の姿を見つけ――。 |
凛香と杏里の過去を読みながら、自分にもケンカ別れをした友達がいたことを、ぼんやりと思いだしていました。中学のときにできた友達で、大学生になった頃に山梨のあたりに旅行に行って、なんか途中から二人めっちゃ話盛りあがっててハブられ気味になってしまったので帰りに私が大人げなくスネて、それっきりになってしまったんだよなぁ。奇数で行動するのはよくないとつくづく実感した旅行だった。
私のことはさておき、自分勝手に解釈した過去を「メアリーの部屋」という思考実験に当てはめて紐解いていく、主人公・凛香ちゃんのおはなしです。
思えば――その時までの凛香は、真面目であるのはよいことだと信じていた。
(中略)
そんな自分の生き方を、疑問視すらしなかった。しかし――
杏里に言われて、理解したのだ。
自分はマジメで、つまり、つまらない人間なのだと。
友達に寄り添えない、駄目な人間だと。
(P238/14~P239/L4より引用)
小中高と成績表の担任記入欄に「真面目」「誠実」と無難で当たりさわりのないおもしろくない評価を書かれてばかりだった私なので、このあたり、すごく共感しました。真面目でも誠実でもないんだよ、人に間違いを指摘されたりヒソヒソされたり笑われたりしてまた自信をなくすのが嫌だから、こわいから、マニュアル通りにしか行動できないだけなんだよ。そういう人間なんだよ私は。
共感したからこそ、「塩見﨑の執筆/無限の猿定理」で凛香ちゃんが塩見崎先生から「君にもいつか、解き放たれる時が来るだろう」と言われたのがそのとおりになって本当によかった。結局、自分を許してあげられるのは自分だけだから。私はまだ自分のことを許してあげられないから、せめて、同じようなことで苦しんでいる凛香ちゃんは救われてほしかったの。だから本当に、よかった。
私をキャンパスに連れてって
というわけで、新刊コーナーでたまたま見つけた初見の作家作品でしたが、おもしろかったです。哲学の本を読むようになってからというもの、常々、大学に入りなおして今度は哲学を勉強したいなぁと思っていたのですが本書を読んでいるひとときはまさにその夢が叶ったような心地がして終始学生気分で楽しく読むことができました。
凛香ちゃんはいい子だし、塩見﨑先生の話は興味深いし、脇を固める助手の佐藤さんや友人たち、ボツラクくんも魅力的なキャラクターだし(とくに沙智流が好き)。……私にも凛香ちゃんのように「真面目」なだけじゃなくて人と関わる勇気と優しさがあったら、あの大学生活がもっと有意義なものになったかもしれないな、と、同時にちょっとセンチメンタルになったり。
最後の一幕を読んだ感じ、シリーズとしてまだつづきそうな雰囲気だったので続編が出たらぜひまた読みたいです。凛香ちゃん、塩見﨑先生、どうかまた私を スキー キャンパスへ連れてって。主題歌は松任谷由実さんで。OKバブリー!
参考にしたサイト一覧
AIの核心を突く思考実験「中国語の部屋」とは?│書籍編集部コラム – BEST T!MES
http://best-times.jp/articles/-/4483
無限の猿定理 – Wikipedia
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%84%A1%E9%99%90%E3%81%AE%E7%8C%BF%E5%AE%9A%E7%90%86
メアリーの部屋(スーパー科学者メアリー)- 宇宙の謎を哲学的に深く考察しているサイト
https://newphilosophy.net/philo/mary.html