上田早夕里『夢みる葦笛』を読みました。文庫裏のあらすじに「「人間とは何か」を問う」とあって良書の予感はしたものの、目次を見たとき「これは挫折するかもしれない」と不安もよぎり。積ん読が尽きた頃にようやくおそるおそる読みはじめたのですが、あのね、最高におもしろかった。それでは本書を読んで考えたこと約1万文字、どうぞ。
人間と世界の本質を問う短編集
ある日、街に現れたイソギンチャクのような頭を持つ奇妙な生物。不思議な曲を奏でるそれは、みるみる増殖していく。その美しい歌声は人々を魅了するが、一方で人間から大切な何かを奪い去ろうとしていた。(表題作)人と人あらざるもの、呪術と科学、過去と未来。様々な境界上を自在に飛翔し、「人間とは何か」を問う。収録作すべてが並々ならぬ傑作! 奇跡の短篇集。
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10編の短編からなり、それぞれ、ホラー、ファンタジー、SFとジャンルは広く捉えられますがおおむねSFの趣が強いです。どの物語にも共通しているのは人間と人間ではないものとの交点から世界の本質を見出そうとするところ、そして、そこが幻想的で美しい。後半からとくに学術的な筆致になっていくように感じましたが、SF好きだけでなく、哲学や奇妙な話、幻想的な物語が好きだという人にも勧められる作品でしょうか。
さほど差はないのだけど、個人的に好きな作品ランキングをつくるとしたらこう。( )は収録順。
1位 「夢みる葦笛」(1)
2位 「氷波」(5)
3位 「眼神」(2)
4位 「プテロス」(7)
5位 「アステロイド・ツリーの彼方へ」(10)
6位 「楽園(パラディスス)」(8)
7位 「石繭」(4)
8位 「完全なる脳髄」(3)
9位 「滑車の地」(6)
10位 「上海フランス租界祁斉路三二〇号」(9)
積もる話は次項で詳しく。以下、10編すべての感想です。心して読むがいい。
不完全な葦でありたい
夢みる葦笛
街に突然あらわれた、「頭がイソギンチャクになった人」のような人型の白い生きもの。新顔のパフォーマーか、それともテレビのイタズラ番組か、それはなにとも形容しがたい美しい音色で人々を魅了する。ところが日々DTMで曲をつくりつづける亜紀はどうしても「イソア」と呼ばれるその生きものたちの演奏を好きになることができず――。 |
愕然、だろうか。「愕然」という言葉が一番しっくりくるかもしれない。言葉を失うような作品だった。比喩ではなく。読書は本来、基本的には無言で行うものだけど、そうじゃなくて、心の中からごっそり言語が抜け落ちてしまうような衝撃。後半なんてもう、なすすべもなく文字と眼前の光景を追うだけだった。
作中、ひとつのキーワードとしてDTMが扱われているように、このおはなしって幻想文学とか奇妙系に見えてじつはすでに私たちが実際に足を突っこみかけている世界なんじゃないだろうか。それは亜紀と同じ目線に立ってボーカロイド等のDTMを起点に台頭しはじめる昨今の音楽シーンの縮図と捉えてもいいし、飛躍して、AIが発達した未来のひとつの可能性と捉えてもいい。
響子は「あれは人間にとって理想的な音楽だと思うけどなぁ」とつぶやいた。
(P20/L16より引用)
亜紀と響子、同じ人間というステージから二分したイソアに対する見解の違いって、つまるところ性善説と性悪説のどちらで人間を見ているかということになるんじゃないでしょうか。そして、悪の根源にあるのは当事者それぞれの善だと思うし、悪は善という基準がないと生まれない概念だと考えているから、私は性善説を信じたい。変えるべきは悪を生みだしてしまうコミュニティーや社会の改善であって“一本の優れた葦笛になる”ことではないんじゃないかと、ねぇ響子、私は思うんだ。
「人間というのは不自由な生き物です。幾らよりよく生きようとしても、愚かで下劣な部分が必ず足を引っぱる。しかし、そんな生き物であっても、その内側には信じられないほどの〈美〉を生み出す能力が隠されている。皮肉なことに、芸術は人間にしか作れないのです。そういう〈美〉のひとつとして、〈音楽〉はある」
(P18/L4~7より引用)
芸術の決定権は制作者ではなく鑑賞者にあると私は考えています。鑑賞した誰かが「美しい」と思ったときそれがその人にとっての「芸術」になるだけで、生みだされた時点のそれは、単なる音楽なり小説なり絵画なりでしかきっとない。
チャールズ・モンロー・シュルツ氏の漫画『ピーナッツ』の中で、「時々、わたしはどうしてあなたが犬なんかでいられるのか不思議に思うわ」とルーシーに問われたスヌーピーは「配られたカードで勝負するしかないのさ……それがどういう意味であれ」と答えたといいます。考える葦と夢見る葦笛。私は配られたカードを見つめながら、考えて、あがいて、そこに芸術を見出すことのできる葦でありたい。
ところで、白くて「頭がイソギンチャクになった人」と聞いて私の中のイソアのイメージが完全にタケモトピアノのダンサー。
眼神
西日本の片田舎で一緒に住んでいたいとこの勲ちゃん。不気味なものが見え、奇妙なことを言うけれど、どんなときも優しくて落ちついた兄のような存在。ところが村の奇妙な風習〈橋渡り〉の儀式を機に、彼はマナガミ様に選ばれてしまった。彼からマナガミ様を落とすため華乃は村を出て方法を探すことにしたのだが――。 |
野干ツヅラ『午後五時四十六分 野干ツヅラ短編集』の趣だなぁと思いながら読みました。
構成がとてもいい。「マナガミ様」と呼ばれる神様に憑かれてしまったいとこを救うために臆病で気弱だった華乃が静かに立ちあがる姿は、ホラーのようで、幻想文学のようで、ノスタルジーとビターが効いた青春小説のようでもあって。どんな視点で物語を読んだか他の人にも意見を聞きたくなる不思議な読み心地です。私はというと、じつは少年漫画的な熱さを読みとりました。
正しいことをするのはよいことなのか。これはたとえば紅玉いづき『大正箱娘 見習い記者と謎解き姫』ではうららが「開けないほうが、よい箱もありますよ」と言ったり、米澤穂信『本と鍵の季節』で松倉が「お前が正しいよ」と一度は堀川を肯定したあと最後に「だけど……いまのはちょっと、まずかったな」と言ったり、他の小説でもたびたび出くわすテーマです。マナガミ様から見れば「隙間だらけの不完全な構造物」の社会で生きながら、この答えのない、あるいは人の数だけ答えがある途方もない問いにむきあって考えつづけること。それができる小説家と物語が、私は、とても好き。
私は、華乃がしたことの一部始終は彼女にとって、そして勲にとって、“よいこと”だったと思っています。あまり踏みこみすぎるとネタバレになってしまうので最後にひとつだけ。あのとき勲が言った「あんまり無理しないで」という言葉。華乃にはどうか、彼のこの言葉を忘れないでほしいな。
蛇足。作中、憑きものに関する記述があるのですが、これは前に加門七海『霊能動物館』という本を読んだことがあるのですんなり頭に入ってきました。読みやすく興味深い本なのでこのおはなしをきっかけに憑きものに興味を持ったという人がいたらこちらもぜひ。
完全なる脳髄
生体脳に機械脳を接続し、人工身体を搭載した合成人間、通称「シム」の〈私〉は普通人のように思考する完全な脳を手に入れるため、医師の繭紀と手を組み他のシムから奪った生体脳を秘密裏に自分の体内へ移植していた。そしていよいよ、9個目の脳を移植し、10個の脳をもつ「本当の意味での人間」になる瞬間が訪れて――。 |
普段ジャンルを気にして読まないのでこれがSFなのかディストピアなのかそのへんわからないけど、この手のおはなしを読んでいつも思うのは、人間の本質はきっとどれだけの時間を費やしてもあまり変わることはないんだろうなと。やれ高度な知能だの言語だの文明だの差別化を図ってみても「生きる」という根本的な部分は他の生きものと変わらない。
いいか。人間になるということは、悪をその本質として受け入れるということだ。
(P102/L6~7より引用)
P102の繭紀の言葉や〈私〉の葛藤は人間の本質的な話で、だけど言葉自体はとても易しく、ここ1ページだけでひとつの作品みたいな、印象的な一幕でした。
P106のラストシーンは「ライフ イズ ストレンジ」のエンディングのひとつを思いださせたけど、全体の雰囲気は「デトロイト ビカム ヒューマン」かな。立場的にはコナーだけどマーカスのイメージ。どちらも私のメンタルには多大なダメージを与えたゲームだけど最高なのでこういう話が好きな人はみんなもプレイしよう。
常々、人間として一番ダメなのは考えることをやめてしまうことだと個人的には思っているのですが、でも、思考すればするほど――作中でいえば生体脳が多ければ多いほど、はたしてそれは、いいことなのでしょうか。
人間の構造上、思考は基本的に言語で行うわけですよね、で、言語というのは物事を明確にする反面ある程度縛ることにもなるわけじゃないですか。つまり思考すればするほど自分の中で制限が多くなる。こうなってくると、むしろ物事を深く考えない人のほうが羨ましく見えることもあったり……。知識や思考力が足りないなと痛感することは多々あるけれど、私は、「完全なる脳髄」を手に入れる勇気はないなぁ。
石繭
通勤途中で見つけた、電柱の先端にはりついた大きな白い繭。仕事を終えて深夜ふたたび繭を見上げてみると、甲高い音を立ててや繭は割れ、足元に色とりどりの宝石のように美しい石が降ってきた。耳元で「拾え」という声を聞き大急ぎで石を掻き集めて帰宅した〈私〉は石を売って金にしようと思案していたが――。 |
私が「本」ではなく「小説」をこのうえなく愛している理由は、言いたいことを直接言わないというルールの中で言葉を尽くして作者の記憶や感情や想いを表現している、という点にあります。
フィクションというフィルターはノンフィクションよりも存外に自分を表出しやすい。人生をかけて自分の中に取りこんできた記憶、感情、想い。それらをまるで自身から削りとるように抽出して物語にする。たった7ページの物語なので具体的な内容に触れることは避けたいけれど、この「削りとる」という小説の本質を明確に描いた作品だと思いました。悩みながら、苦しみながら、祈りながら、誠実に物語をつくる人が私は大好きです。
フィクションの世界だからこそ、そこに住む人々には皆幸せになってほしいと思う。必ずしも読者の理想どおりではなくていい、だけどせめて、彼ら1人ひとりにとっての「幸せ」に。〈私〉は最後そうなれたのだろうし、ここからはじまる物語もまた、ハッピーエンドでありますように。
氷波
土星の衛星・ミマスで観測を行っている宇宙開発用人工知性、通称〈トリプルツー〉の元に、あるとき〈タカユキ〉と名づけられた新たな人工知性がやってきた。広瀬貴之という総合芸術家の人格がコピーされた彼は氷波の動きを体感するため「C環の巨大波でサーフィンをしてみたい」というが――。 |
トリプルツーとタカユキのやりとりがかわいくってあたたかい気持ちになれる作品。偶然にも先日、火星探査車〈オポチュニティ〉がその活動を停止し、その歴史に幕を下ろしたばかりですね。彼(もしくは彼女)に心があったとしたら、 当初予定されていた90日を大幅に超えた15年の歳月をどのようにふりかえったでしょう。そんなふうに想いをめぐらせてしまいます。
「あなたはご自分のことを、広瀬氏からデータをシェイプした存在だと言いました。簡略化されたコピーだと。でも、私たちには、そうは思えないのです。むしろ、余分なデータを削ぎ落とした分、あなたは広瀬氏の本質に近づいているのではないでしょうか。あなたは広瀬氏の劣化コピーではなく、純度という点では、広瀬氏にとても近い存在なのでは」
(P150/L14~17より引用)
実際自分でもSSを書いたことがあるくらい、私、短編小説って大好きなんですよ。掌編小説ならなおいい。それって、言葉を尽くすべき主題を最低限の言葉のみ用いて表現するところにえもいわれぬ美しさを感じるからで。そのへんの心情を的確に代弁してくれているのがこのトリプルツーの言葉で、個人的にはとても印象的でした。機械らしくドライで淡々としているけれどそれがむしろ個性に思えて、もう一度言いますが、かわいい。
2体のAIが独自の言語で会話をしだしたというニュースを見て戦慄したのは記憶に新しいですが、トリプルツーとタカユキのやりとりを見ていると、うーん、どうして機械に心を与えることを私たちはためらってしまうんだろうって考えてしまいますね。それって本当におろそしいことなんだろうか。もしも心を与えられたAIに悪が芽生えたとして、だけど、成長の過程でさまざまな要因によって悪が芽生えるのは人間だって同じはずなのに。難しい。ただこの作品をきっかけにAIに対する価値観が少し変わったのはたしかです。
滑車の地
あちこちに頑丈な炭素ロープが張りめぐらされ、「プリオ」と呼ばれる滑車で泥棲生物のひしめく〈冥海〉の上を移動する、滑車の地。修理工であり整備士でもある三村はある日、工場長から有志参加の企画である「アジサシ計画」のパイロットが決まったことを聞かされる。成績トップで体重がもっとも軽く、身よりがない。好条件の少女・リーアはしかし、人間ではなかった――。 |
大切な計画に携わる者が人間じゃなくてもいいのか――それは、アジサシ計画のスタッフなら誰でも考えることだろう。
(P165/L14~15より引用)
技術が備わっていれば人間にとって重要な物事を人間でないものがおこなってもよいのか。ひとつ前の短編「氷波」が宇宙探査機の話だったのでなおさら上層部がリーアに対して抱いている複雑な心境には考えさせられます。本書を読む前の私がそうだったんですけど、たとえば介助犬などは「偉い」「お利口」「すごい」と褒めそやすのに介護ロボットとなるとどうして一転して終末感というかディストピアかのような目で見てしまうんでしょうね。工場長の「(初飛行の)名誉なんぞ、『人間としてのプライド』とやらに囚われている連中にくれてやればいいんだ」という言葉にグッときました。
冥海へ戻れば毒で死ぬだけだ。だから彼らは昇るしかない。上のどこかに生きる場所を探して。それは、本質的なところで、三村たちが飛行機を作った理由と同じだ。
(P186/L6~8より引用)
終盤の展開は「俺の屍を超えてゆけ」という少年漫画かFPSゲーム的な熱さがあって好きです。多様性の時代といわれる今日ですが、それでも人間の他の生物たち、人間同士でさえ、本質的なところは変わらないはずだという大切なことを思いださせてくれる作品でした。肝心の「俺の屍を超えてゆけ」はプレイしたことない。興味はある。
プテロス
宇宙生物学者の志雄は揚力を失った「プテロス」と呼ばれる飛行生物とともに落下、どうにか体勢をたてなおし地上へ着陸した。プテロスは上翅の中に損傷した下翅をたたむと、8本の脚を蠢かせ、移動をはじめる。どうやら志雄の目的地〈凍石柱〉をこのプテロスもまた目指しているようだ。志雄はこの個体のあとをついていくことにしたが――。 |
偶然、この前日に「世界まる見え!テレビ特捜部」を見ていて、4日間海上を漂流していた人が遭難前に獲ったロブスターに「タマ」って名前をつけて話しかけてメンタル保っていたくだりがあって。海上の遭難では孤独感もまた死の要因になりうると。状況は違うけれど、志雄が無駄とわかっていてもなにか反応はないかとプテロスに話しかけずにいられなかったのもそれとなにか通じるところがあるのかもしれません。まぁタマは結果的に食べられていたんですけど。空腹は孤独に勝る。自然の摂理。※志雄はプテロスを食べません。
本当の意味で宇宙生物学者になるためには、科学者としての常識どころか、『人間であること』すら、捨てねばならない瞬間があるのかもしれない。
(P217/L6~7より引用)
ここを読んだときに、ああこれ「コウモリであることはどのようなことか」だわ、と思いました。私は哲学か思考実験関連のなにかの本で知ったのですが、アメリカの哲学者、トマス・ネーゲル氏が1974年に発表した論文が元だそうですね。
もし、あなたが人間としての脳だけを保ったまま、コウモリの体でもってコウモリの生活をしてみたのなら「空を飛ぶことは怖い。けれどちょっぴり楽しい」とか、「昆虫を食べるだなんて気持ちが悪い。でも食べなきゃ死んじゃう」とか、「洞窟の天井にぶら下がって眠るなんて変な眠り方だ。落っこちないかな」などと思い至ることだろう。しかし、ネーゲルが問うているのは、そうした人がコウモリになった場合の感情や印象、世界の捉え方ということではなく「コウモリにとって、コウモリであるとはどのようなことか」である。つまり、コウモリの体とコウモリの脳を持った生物が、どのように世界を感じているのか、である。
――Wikipedia「コウモリであるとはどのようなことか」より
たとえば「もしも1日だけ別人になれるとしたら誰になりたい?」というような質問ってよくある話題のひとつだけど、自我を保ったまま別人になるのか、それとも一時的に自我すらも別人のそれになるのか、どっちなんだと。どっちにしても自分の肉体に返ってきたとき持ち帰った経験が必ずしもプラスになるとは限らないから私は誰にもなりたくないかなぁ。VRのゲームをあまり好意的に見れないのも同じ理由なのかもしれない。ある程度リスクを抱えてでも知りたいと思える対象がある人は羨ましいし尊敬しますけどね。
世界観はまったく別次元ですが、読んでいるときの感情は吉野万理子『ロバのサイン会』に似ていたかも。動物が好き、植物が好き、そんな人はぜひ。今よりもっと生きものを愛おしく想えるはずです。
楽園(パラディスス)
クリスマスの日、ハンドルを切り損ねた乗用車にはねられてこの世を去った宏美。突然の死を受け入れられない〈私〉は、宏美の生前のライフログを食わせたメモリアル・アバターを利用してヒヨコの姿をした虚構の彼女と暮らしはじめる。事故の3週間前、意味深な言葉を残していた宏美。あるとき、彼女の同僚を名乗る女性から「伝言をあずかっています」とメールが届き――。 |
〈現実〉の網の目からこぼれ落ちてしまうものこそが――決して手が届かぬそれこそが、人間を、様々な形で未来へと駆り立てているのだと。
(P257/L11~12より引用)
私の大好きな小説、紅玉いづき氏の『ブランコ乗りのサン=テグジュペリ』という作品で少女サーカスの歌姫・アンデルセンという少女が「不平等さも、美しさだから」と語る場面があって。その場面を、とても鮮明に思いだしました。不完全で、未熟で、とても愚かな。だけどそんな人間であることが、ときどき、たまらなく愛おしい。
本作を読んだあとだと、先の短編「プテロス」で紹介した 「コウモリであることはどのようなことか」 という問いを今度は違った見地から考えることができそうですね。コウモリとしてコウモリであることがどういうことかを知ることは、少なくとも今の技術では、難しいです。だけど。
本物ではない、だが、偽物でもない。そこに価値を見出せるのは、私たちが人間であるからだ。
(P259/L1~2より引用)
人間としてコウモリの自分を想像してコウモリであることを考えるというのは、それはそれで、意味のあることだと私は思います。それは作者という本物と物語という偽物が共存する小説も同じ。あなたにとっては本物ではない、だけど、私にとっては本物のこの感想も同じ。
どんなに些細でもいい、私のこの言葉の一端になにか価値を見出してくれる人がいるならば、それはとても幸せなことです。
上海フランス租界祁斉路三二〇号
1931年3月、東京帝国大学理学部化学科の研究室に所属する岡川は、研究の場を中国へ移すため上海へ渡航し、日中共同国際研究機関である上海自然科学研究所へとやってきた。純正科学は国や人種の違いを超えて存在すべき、という信念のもと研究に打ちこむ岡川だが、複雑な情勢の中、同じく東大化学科から上海へやってきた中国人留学生・趙からあるとき不穏な“予言”を聞かされて――。 |
恥ずかしながらさっぱり学がないので目の前の物語を額面通りに受けとって読むのが精一杯だったのですが、後半、泣きそうでした。「泣くのはいい。君がそうしてくれれば、私はむしろ安心できる」という岡川の言葉が最高。
本作のテーマのひとつに「歴史」というのが挙げられますが、石川宗生『半分世界』に収録されている短編「白黒ダービー小史」の中でレオに「ねぇ、歴史ってなんのために作られたか知ってる?」と問いかけたマーガレットの声が聞こえてくるようです。温故知新。たしかに過去を尊び歴史を重んじることは大切なことです。だけどその一方で、過去は今を縛りつけて可能性をつぶすことにもなりませんか?
残酷な運命の果てには、もしかしたら、希望のかけらすら残らないかもしれない。けれども、それでも、そこには某かの意味があるはずだと――心の底から信じてくれ。
(P308/L5~6より引用)
過去の人々が羨んでも、未来の人々が嘆いても、今生きている私たちにとってはここがすべてだし、希望も絶望も自分のために意味を見出せるのは結局この瞬間を生きている人だけだから。せめて他の誰でもなく今この一瞬の自分のために生きていきたいですね。
アステロイド・ツリーの彼方へ
民間の宇宙開発会社で探査機からの観測データを自分の脳に再生して体感しながら分析する〈分析員〉として働く杉野は、あるとき嘉山主任からの頼みで、人工知性を持ったがゆえに『人間の本質について知りたい』と考えるようになった機械猫・バニラの世話という特別任務を任されることに。バニラの問いには極力答え、外の世界にも触れさせてやる杉野だったが、いよいよ特別任務から解放されるときがきて――。 |
共感覚、人工知性、宇宙環境に適応するために人間を超越すること、人間とはなにか、生命とはなにか、感情とはなにか……ここに至るまでの9編のキーワードをすべて盛りこんだようなまさに集大成ともいうべき作品。
「人工知性」を搭載した機械猫・バニラとごく普通の分析員の青年・杉野がひょんなことからしばらく行動をともにすることに、というほのぼのシチュエーションに萌えていたので、最後に嘉山主任から明かされるバニラの真実と事の発端である後藤さんのヤバさがすごい。語彙力失うぐらいすごい。すごい。
生物か機械かはどうでもよく純粋にバニラの知性に深い愛着を抱ける杉野はとても人間的だけれど、好奇心や探求心を満たすためにここまでやってしまう後藤さんもまた高知能の動物という人間の特性を極端な形で表現したキャラクターで。
人間は、ひとことで言えば混沌だ。
(P341/L7より引用)
バニラは「人間とはなにか」という問いにひとまずはそんな答えを導きだしたようだけど、私もこれにはまったく同感で、もっといえば混沌のままそこにあるほうが美しいものもあるんじゃないかって思ってしまうんですよね、そこは文系と理系の違いなのかな。
後藤さんや嘉山主任とは、受けいれることはできるかもしれないけれどわかりあうことはできないかもしれない、と暗い気持ちにもなったのですが杉野の最後の独白を聞いて、彼のような職員もいるのならば、と少し安心しました。世の中を変えるのは天才ではなく本当はきっとこういう人たちなんだろうな。
完全に運命だった
常日頃「個性的な小説が読みたい!」「考えるおもしろさがある小説が読みたい!」というマインドでブログを書いていますが、いやぁ、久しぶりにドンピシャの小説を読んだなという充実感。もうさっそく作者の過去の短編集を探しています。長編はまだ読みきれる自信なくて、となると、次は『魚舟・獣舟』かな。タイトルが気になる。……などと検索かけているときに気づいたのですが、
『薫香のカナピウム』(長編)、買ってた。
本棚にしまってあった。買ったはいいけどこれは挫折するかもしれないって読まずにここにしまってたんだ。既視感。
完全に運命なので次の上田作品はとりあえず『薫香のカナピウム』読みます。
参考にしたサイト一覧
人生がハッピーになる!スヌーピー名言集「配られたカードで勝負するっきゃないのさ、それがどういう意味であれ」
https://www.motivation-up.com/word/032.html
火星ローバー「オポチュニティ」ミッション終了、15年の活動に幕┃月探査情報ステーション
https://moonstation.jp/blog/marsexp/mer/opportunity-ended-its-long-lasting-mission
終わりの始まり…?独自言語で話しはじめた人工知能、Facebookが強制終了させる┃ギズモ―ド・ジャパン
https://www.gizmodo.jp/2017/08/facebook-ai-sf.html
コウモリであるとはどのようなことか – Wikipedia