!ネタバレ注意!
本記事は澤村伊智『ひとんち 澤村伊智短編集』に関する考察記事です。作品の内容や結末について本文を引用しながら書いているので、作品を既読である、またはネタバレを承諾する場合のみ閲覧することを推奨します。また、記載される内容はあくまで筆者個人の意見です。以上のことに同意していただける方のみ続きをお読みください。 |
澤村伊智『ひとんち 澤村伊智短編集』を読みました。位置づけとしてはたぶんホラー小説の部類で普段あまり食指が動かないジャンルなのですが、某読書ブログの紹介文を読んだ感じ奇妙系の話に近いのかなという期待もあって、結局読みました。
結論から言うとその中間のような不気味な話で、読後に考察するのがめちゃくちゃ楽しく、自分なりの感想を書こうとするとどうしても結末まで触れなければならなかったのでここは潔くあきらめてネタバレ前提の考察記事として書きます。というわけで、既読またはネタバレOKのみなさん楽しんでいってください。
ひとんち
大学時代、スーパー〈くらしマート〉でアルバイトをしていた歩美、恵の3人。歩美と恵が偶然に再会したことに端を発し、2人は実業と結婚したという歩美の家を訪問することになった。他愛ない話の中で言及される彼女たちの見聞きしたいくつかの「ひとんち」のおかしな習わし。そして――。 |
オチ自体はおおかた予想できるけれど一番こわいのはこの組みあわせにおいて「異常」と見なされたのが香織だったというだけで必ずしも恵と歩美が「正常」であるということにはならない、というところだよね。むしろ香織の一件が彼女たちの中である種の“基準”になってしまって「あれに比べたらまだこれはまとも」って視野を狭める結果になってしまうであろうことが心配。
読めば読むほど、少なくとも人間社会には「正解」などというきれいごとは存在しないんだなと悟れます。哲学的ゾンビやクオリアよろしく、自分のものさしだけで人と世界を見てはいけないということですね。私が好きな哲学とは常識を疑うところからはじまりますが、それは、少しばかり不安や恐怖もつきまといます。それが魅力的といえば魅力的でもあるのですが。
とはいうものの、一体どうやったら本編で触れられるようなあんな歪んだ家庭と風習が成り立つのか、と考察するのはなかなか興味深いです。とくに香織の一件は本人がどこまで自覚したうえで子供を〈ワンちゃん〉として飼っていたのか、歪みを疑うきっかけはまったくなかったのか、歩美が帰路で考えた諸々のことなど。歩美の独白によれば香織はどうも“お嬢様”だったようで、奴隷のことを「犬」と形容する例もありますよね、そういうのも〈ワンちゃん〉の風習の背景にあるんのでしょうか。
余談ですが、「ひとんち」ということで私がよそのおうちで衝撃を受けたのは、シチューをごはんにかけて食べることでしょうか。カレーのように。もちろん普通に美味しかったですけど、あれは衝撃的だったなぁ。
夢の行方
小学5年生の2学期、11月14日の夜、〈僕〉は赤い照明に包まれた自宅マンション内で不気味な〈ババア〉に追いかけられる悪夢にうなされる。3日間にも及んだ悪夢は読み漁った除霊術でどうにか絶つことができたが、後日、あの悪夢をクラスメイトたちも見ていることを知る。しかもクラスに蔓延している悪夢の連鎖は赤いババアの夢だけではないようで――。 |
複数人が同じ夢を見るという構図は都市伝説「夢男(This Man)」を思いだしますね。
また、相手の「会いたい」という気持ちが夢をわたってこちらの夢に出てくる、という話が羽海野チカ『ハチミツとクローバー』の1コマに書いてありました。何巻の話かは忘れた。この場合「会いたい」理由は彼らの夢を介したなんらかの計画があるからで、オーソドックスに考えればそれは夢を見ている本人になにかするということですが、もしかしたらババアと犬が敵対関係にあって人間の夢をわたり歩くことでそれぞれが相手を追っていた……という解釈もおもしろいんじゃないでしょうか。
さて、めぐりめぐっていよいよ最悪のタイミングで悪夢を見る番がまわってきたクラスの番長・宮尾ですが、これまた考察がはかどる意味深な最後を迎えましたね。私個人の考察を述べると、宮尾は〈僕〉たちとは少し違った3日間を過ごしたのではないかと思うのです。
かつての取り巻きは再び彼に従うようになった。
(P73/L5より引用)
気になったのはこの部分。取り巻きというのはたぶん同じくクラスメイトなんですよね?そう仮定すると、当然、彼らもまた悪夢を見ていたことになる。取り巻きくらいの距離感であれば誰かしら必ず宮尾に悪夢のことを言及したでしょう。つまり宮尾があの3日間をどう過ごしたのか知っている可能性がある。
彼らが「再び彼に従うようになった」のは、おそらく宮尾が2つの悪夢をなんらかの形で終わらせ(その代償が身体の傷)、しかしそれをひけらかすことなく皆の前で“番長の宮尾”でいつづけたことに美学のようなものを感じたからではないのか……と考えるのは宮尾の肩を持ちすぎでしょうか?
私が読んでいる最中に考えていたのは、ババアと犬を鉢合わせることによって相殺させればいいのでは?ということだったんですよね。おそらく宮尾はそれを成し遂げたのではないでしょうか。小学5年生に明晰夢の知識があるかはわかりませんが、あるいは、自覚なしに明晰夢を見れる体質なのかも。
闇の花園
常に黒の衣服をまとい、クラスでも孤立して目立っている飯降沙汰菜。臨時教員の吉富はそんな彼女を案じて「魔女」と噂される母・瑠綺亜との面談など積極的に関わろうとする。次第に沙汰菜と幾ばくかの会話はできるようになったが、あるとき同僚の長倉から親子の売春の噂を聞き、真相を確かめるため曰くつきの街角に立ってみると--。 |
笑うような話じゃないんだけど、あまりに現実と剥離しているので最後もう笑うしかなかった。
最近、 出口治明 『仕事に効く教養としての「世界史」』を読んでいるんですが、この本によれば、人間が最初に信仰したものは太陽でその次に出産という神秘を体現する女性だったそうです。土偶とかね。タイトルが安易に闇の“一族”などではなく「花園」としているのは、人々を翻弄する「女」というアイコンの比喩なのかもしれませんね。
あとはそうだなぁ、沙汰菜の名がサタンのもじりだとすれば母・瑠綺亜は聖ルキア(ルチア)からでしょうか。
最後の拷問として、ルチアは両目をえぐり出された。奇跡が起き、ルチアは目がなくとも見ることができた。絵画や像では、彼女はしばしば黄金の皿の上に自分の眼球を載せた姿で描かれる。
--Wikipedia「シラクサのルチア」より
目がない=盲目は物事が正しく見えていないという意味で盲信ともつながっているのかな。「殉教」という点もおおまかには似ていると言っていいでしょう。総合すると、キリスト教を少なからず意識した作品だったというわけですね。
キリスト教では「神の敵」イスラム教では「人間の敵」とされるサタンが下界で覚醒したとあれば、今後の展開は神との戦争かあるいはそこに人間も加わった三つ巴か。どちらにしても状況は絶望的。
ありふれた映像
息子の亮太が慎二君とスーパー〈くらしマート〉の一角で見つめていた、商品の販促映像。2人に促されるまま菱川さんとともにその”ありふれた映像”をながめていると、画面右奥に一瞬、販促映像には映ってはいけないおそろしいものが映りこむ。〈わたし〉は〈くらしマート〉の制作課に勤める夫・俊之にこのことを報告するが--。 |
サブリミナル効果みたいなものでしょうかね。それを地域、あるいは全国レベルで展開しているのかな。単なる実験なのか、それとも承認欲求のうちなのか。河村の心情を考えると興味深く、個人的にはもっとも印象的な話でした。
でも、サブリミナル効果の狙いがあったとしてああいった映像を拡散することで本人が得られるメリットってなんなんだろう。映像の仕事のきっかけがフィルムフェスティバルってことはもともとは映画監督志望とかで、だけど実際はその方面で売れてなくて、売名というか承認欲求的なところからこうことしちゃってんのかなぁ。作品全体がオカルト味を抑えた現実的なつくりだからそういう解釈が一番しっくりきそうではあるけれど。個人的には冒頭で触れたようにこれでなにか社会的な実験をしているというほうがサイコっぽくて好きではある。
発端が〈くらしマート〉ってところもすごく気になるんですよね。「ひとんち」の歩美たちが大学時代にバイトしていたスーパーなんですよ。香織の一件は家の風習なので手遅れだったにしても、猫でないもの(たぶん元カレの稔)を〈猫〉と認識して暮らしている歩美の歪みはこの映像が影響している可能性もひょっとしたらありえるし、うーん、想像力かきたてられますね。
ところで、映像つながりでということなんでしょうかね、この短編を読んで思いだしたのが、昔なにかの深夜ドラマで見たある一編。
深夜、コインランドリーで洗濯していた若い男性だか女性だかがふと店内の一角にあるテレビに目をむけると、BGMとともにどこかの定点カメラの映像が流れている。深夜とか早朝によくある番組(?)ですね。なんとはなしにそれをながめていると、その中で、今たしかに男が誰かを刺したような。戸惑う主人公。そのとき映像の男はふいにこちらをむいて……。
うわぁぁぁぁぁ!(´;ω;`)
深夜に偶然見たのもあってめちゃくちゃこわかった。今調べたらたぶん2007年放送のフジテレビのオムニバスドラマ『トリハダ〜夜ふかしのあなたにゾクッとする話を』の第1話だと思います。きっと私の記憶違いの箇所もあるので興味がありましたらぜひDVDなどでどうぞ。
宮本くんの手
編集者の〈僕〉はある日の深夜、同じく会社に残っていた宮本くんの手がひどく荒れていることを目に留める。乾燥肌でも、水虫でも黴菌でもなく、なにもせずともときどきこうなってしまうという不可解な手荒れ。日に日に悪化する症状に苦しむ宮本くんの姿に心を痛める〈僕〉だったが、あるとき、大きな地震が起きて--。 |
人は「知らない」ということがこわいから、わからないものはなにかと因果を結びつけて考えたがる。“3番目”じゃなければトイレの個室も安全だと思ってしまう。ジンクスや験担ぎもたぶん同じ理屈。
普段は意識しませんけど、人間ってめっちゃ複雑にプログラミングされてますよね。信じられへんほど精巧に組み立てられてる。でもたまにバグも発生するわけです。
(P172/L11~12より引用)
「バグ」と呼ぶには些細なことかもしれませんが、私の場合は両手親指をほぼ90°反対に反らせることができて、知人に見せると「人間じゃない……!」と言われます。一定数いるみたいですけどね。あとは前々から書いているように風邪を引いている人はにおいでわかったり、他にも精神的に深刻なバグがいくつか。
信じることで救われる心があるならそれを懐疑的に見たり否定するつもりはないけれど、気になるのは、もしも宮本くんの覚悟むなしく今後どこかでまた大きな震災が起きるようなことがあったら。……彼は、どうしてしまうのだろう。簡単に腕を「電車にぶつける」覚悟ができるのなら、きっと、身を投げることだって容易くやってのけてしまうだろう。それを危惧するからこそ、P205で奥さんの笑顔に影が差したんじゃないか。宮本くんに対して気にかけるべきだったのは手ではなく本来そちらの“誠実な意思の強さ”のほうだったのではないか。個人的にはそんなふうに考えてしまいます。
まぁ、どんな差異であれ「バグ」なんて言いかたは悲しいですよ。私も鬱を患った過去を家族に「絶好調に落ちこんでた」なんて茶化されるの未だにつらいですし。
宮本くんの境地に達するのは危険ですが、普段意識していないだけで本当は誰にでも”普通ではないところ”がある、という見方で「宮本くんの手」を読むのも、ありなのでは?
シュマシラ
子供の頃熱心に集めていた食玩「スーパージョイントロボ」の思い出から偶然生まれた、コレクター・柳との縁。彼はこのシリーズの中で唯一元ネタがわからない謎のロボット「シュマシラ」の情報を求めており、興味を持った〈私〉も密かにUMAを愛好していた職場の総務部長・川勝を巻きこんで個々に「シュマシラ」を追うのだが、ついに参照元と思われる情報にたどりつくと、翌月、川勝さんが行方不明なり--。 |
「ありふれた映像」も好きなんですけど、んー、一番を選ぶとしたら個人的にはこの「シュマシラ」でしょうか。加門七海『霊能動物館』を読んでから動物の神様とか妖怪とかかなり興味あるんですよねぇ。
誰かが――いや「何か」が、妖怪の類を蒐集しているのではないか。ずっと昔から今現在まで。
(P244/L11~12より引用)
さて、この場合考察すべきは誰が――「なに」があそこで妖怪たちを蒐集していたのか?ということですが、動物園の敷地内での話である以上、動物園側の人間かあるいは彼らが黒幕と結託しているという可能性がまずありますよね。妙に愛想のいい飼育員の態度も気になるし。ただ、人間が妖怪の類を蒐集できるほど生物的に優位なのかってところが引っかかっていて。
アライグマだけが何故か鎖に繋がれ、檻のちょうど真ん中で項垂れていた。
(P235/L10より引用)
個人的には、アライグマだけが鎖につながれているというのが気になるんですよね。
幼い頃に縁日の金魚すくいで出会った金魚を数匹飼っていたのですが、たしか、家に連れ帰ったあともしばらくは袋のまま水槽に浮かべて水槽だか人間だかに慣らした記憶があるんですよね。親に言われるままやっていたので効果があるのか知らないけど。
なにが言いたいかというと、例のアライグマも“慣らす”時期だったのではないかと。つまり最近この場所へ来た可能性がある。で、その「最近」というのが川勝さんの失踪時期と重なるのでは……?というのが私の仮説です。
この区画だけコンセプトがあるらしい。奇妙に感じたが、同時に「いかにも地方の動物園らしい」とも思えた。
(P235/L5~6より引用)
コンセプト。あのとき〈僕〉はそんなふうに感じていました。正気の感じられない動物たち。あれはつまり、あの空間に捕らえられて蒐集された人間側の慣れの果てなのではないか、と私は思うのです。動物を檻に入れて蒐集・陳列する「動物園」という人間の行為を真似た者のしわざなのではないか、と。
真似といえば、日本には「猿真似」という言葉があります。
猿が人の動作をまねるように、他人のすることの表面だけまねること。
――コトバンク「猿真似(サルマネ)とは」より
思いだされるのは冒頭で〈私〉が述べたこの一節。
というより、蒐集という行為は意図してするものではないのだろう。気が付いたら蒐集している。夢中で買っていたら結果的に蒐集していた。きっとそういうものだ。
(P209/L12〜P210/L2より引用)
意図して行われない、という点で人間の蒐集とこの何者かによる蒐集はかなり似ているような気がします。妖怪を蒐集し、そして人間を蒐集する、はたしてその黒幕とは何者なのか。――私はシュマシラ、ひいては猿そのものなのではないかと考えています。
ちなみに、私が「猿」を「マシラ」とも読むことを知ったのは風越洞×壱村仁『けんえん。』という漫画ですが、あちらではたしかマシラ(主人公)=玃猿たちは元々は猿神として信仰されていたんじゃなかったっけ。
この世界の猿たちにも『けんえん。』の玃猿たちと同じような状況が当てはまるのだとしたら川勝さんの失踪はまさしく「神隠し」だし、「宮本くんの手」同様、信仰の力というのは侮れないと感じさせる作品でもありますね。
死神
小説家の「ぼく」が知人の知人である植松恭平から聞いた、怪談とも言っていい奇妙な話。事情があって1ヶ月帰省しなければならない大学時代の友人・日岡からペットの面倒を見てほしい、と頼まれた植松は、鉢植えを5鉢、昆虫用飼育ケースを1つ、こぶりな水槽、2匹のハムスターが入った檻を預かることに。ところがそれ以来、植松は自分と部屋に異変を感じるようになりーー。 |
いわゆる「不幸の手紙」や「チェーンメール」の類の話ですね。友達とのやりとりが手紙からメールへ変わるちょうどその過渡期に多感な時期を過ごしたので、まわってきたときの不安や恐怖というのは今でもありありと思い浮かべることができます。最後に見たのは掲示板かSNSのコメント欄に「この文章をコピペして◯箇所に書きこむと云々」みたいなものだったでしょうか。時代が変わっても脈々と受け継がれるものなんですね、こういうものは。嫌な文化だ。
物語としてはシンプルなホラーでわざわざ内容を細かく説明するほうが野暮ってもんですが、個人的には主人公が「編集プロダクション」に勤めていたという点、その経緯の末「ホラー小説でデビューした」という点が気になります。「宮本くんの手」の主人公と境遇が似ているんですよね。
2人は同一人物で時系列が前後している(一人称が「僕」と「ぼく」で表記が違うのは心の中で公私で使いわけをしているのかもしれない)のか、それとも「共通の知人」とやらが彼のことを指していたのか、はたまたまったく無関係か。仮に同一人物だった場合、鉄道で腕を自ら切り離した宮本くんを知る彼は鉄道自殺した植松に対してなにを思うのか……というのが、気になるというか、心配。
結局死神の正体はなんだったのか、という考察ですが、私は「藻」のほうが本体なのではという視点からそういえば「藻」と「喪」はどちらも音が一緒だと思考を発展させ、とりあえず「藻」という漢字の成り立ちを調べてみました。そしたら、
「並び生えた草」の象形(「草」の意味)と「流れる水の象形と、器物の象形と木の象形(「操」に通じ(同じ読みを持つ「操」と同じ意味を持つようになって)、「使いこなす」の意味)」(「水を使いこなす・洗う」の意味)から、水中に洗われている「も」を意味する「藻」という漢字が成り立ちました。
というのを見つけまして。
藻こそがタイトルのとおり「死神」だとしたら人間を「操」って「使いこなす」とはなかなか言い得て妙な作品だったなと。
まぁ、肌色とかイボがどうとか言ってるんで明らかに藻ではないなにかが水槽にいることは間違いなさそうなんですけどね。それは人間が可視化できるように具現化した姿なんじゃないかな(適当)。
じぶんち
3泊4日、楽しかったスキー教室から帰った中学生の卓也。渋滞で学校に到着したのは10時をまわった頃だというのに家族が誰も迎えに来ないことを不審に思いつつひとり「じぶんち」へ帰るが、日常のかすかな痕跡を残して、そこにいるはずの弟と両親は忽然と姿を消していた。家中に点在するさまざまな違和感に不安や恐怖を抱きながら彼らの足どりの手がかりを探す卓也だったが、先ほどまで一緒にいた同級生の豪から奇妙な電話があり、そして――。 |
大学に通いはじめた時分から、一人暮らしをする友人もあったせいか、外泊というのが特別でもなんでもなくなった。当時離れて暮らしていた祖父の体調を案じる母についていってしょっちゅうむこうに泊まりに行っていたというのもある。普段は「じぶんち」であり「日常」であるここが、しばらくぶりに帰ると他人行儀な空気をまとっているような感覚は、私にとっても身近なものです。
シュレディンガーの猫じゃないですけど、たとえば、自分が外へ出かけているあいだ自分の家がどんな状態であるか想像したことはないでしょうか。誰もいない家。あなたが帰るまで、あなたの知っている「じぶんち」かもしれないし「じぶんち」じゃないかもしれない家。だって、人目のない場所で家がわざわざ「日常」を保ちつづける必要はないのだから。
自分が家を空けているあいだ、「じぶんち」には自分にとっての日常ではない日常が存在している。――兄が結婚して家を出ていってから、最近、よくそんなことを考えます。夕飯のとき家族で一番食べるのが遅かった兄。今は私が最下位になって、だけど食べるのが遅い兄の日常は今も新しい家庭でつづいていて、そうやってかつての「日常」と今ここにある「日常」とが共存しながら世界はまわる。
日常、常識、世界――そんなものは突きつめれば結局のところ自分の中にだけ存在するものでたとえそこが「じぶんち」であろうと決して安心はできない。そういう意味では「じぶんち」というタイトルは表題作「ひとんち」と対になっているようでじつはイコールのような位置づけなのかもしれませんね。
ホラーというよりはSF的な話ですが、卓也はこれからどうなるんでしょうね。本当の家族が転送を完了していて、すなわちよくわからないけどもうとっくに存在していないのなら、彼も今ここで廃棄されるほうが幸せなのか。ここでコピーの家族と仮に幸せに暮らせたとしても「転送が完了するまで」ってリミットがあるし中途半端に予後があるほうがかえってつらいんじゃないかとは思う。ただ、具体的になにされるのかは知らないけれど14歳の少年にとって今ここで存在が消滅するという場面に精神的に耐えられるのかという懸念は無視できない。
こればっかりは考察する材料が足りないので、卓也にとってこれ以上の不幸がありませんようにと願うしかないのかなぁ、悲しいけれど。
おわりに
というわけで、澤村伊智『ひとんち 澤村伊智短編集』に収録されている8作品すべての感想ならびに考察でした。未読の人向けに感想記事を書けなかったことは悔やまれますが、制限がないぶん、ネタバレOKの人には読み応えのある記事が書けたのではないかと少しばかり自負しております。
そもそも私たちの身体でさえ、細胞は死と誕生をくりかえし、記憶は曖昧になっていき、古くから哲学者たちは思考実験を用いて過去と現在の自分の同一性を証明することは難しいということを考えてきました。そんな頼りない私たちが形成する日常が、いったい、どうして信じられるでしょう。
知覚できないだけで、今も少しずつ、その日常はもうあなたの知る「日常」でなくなっているのかもしれない。……本書を読んでしまったが最後、どうかその事実を、ゆめゆめお忘れなく。
参考にしたサイト一覧
シラクサのルチア – Wikipedia
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B7%E3%83%A9%E3%82%AF%E3%82%B5%E3%81%AE%E3%83%AB%E3%83%81%E3%82%A2
サタン – Wikipedia
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B5%E3%82%BF%E3%83%B3
猿真似(サルマネ)とは – コトバンク
https://kotobank.jp/word/%E7%8C%BF%E7%9C%9F%E4%BC%BC-512562
猿神 – Wikipedia
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%8C%BF%E7%A5%9E
OK辞典:漢字/漢和/語源辞典(漢字の意味・成り立ち・読み方/画数/部首)
https://okjiten.jp/kanji1559.html