昔、どこかで見聞きした話。2人は母子か姉妹だった気がする。母(姉)はあるとき、娘(妹)にお守りをひとつ手わたした。大好きな母(姉)からもらったそのお守りを彼女は大切に身につけていたが、あるとき、なにかの拍子に中身が見えてしまう。中に入っていたのは折りたたまれた紙片。そこにはたった一言「死ね」と書かれていた……。
水面を優雅に泳ぐアヒルの水面下に隠された足は、しかしせわしく水を掻いている。疑いの余地のない日常・平和・幸福の中に、ときどき、アヒルの掻いた水のように人知れずざわつく心地を覚える。今村夏子『あひる』は、そういう小説。鳥の話をいっぱいします。
『あひる』で描かれるカッコウな人たち
我が家にあひるがやってきた。知人から頼まれて飼うことになったあひるの名前は「のりたま」。娘のわたしは、2階の部屋にこもって資格試験の勉強をしている。あひるが来てから、近所の子どもたちが頻繁に遊びにくるようになった。喜んだ両親は子どもたちをのりたまと遊ばせるだけでなく、客間で宿題をさせたり、お菓子をふるまったりするようになる。しかし、のりたまが体調を崩し、動物病院へ運ばれていくと子どもたちはぱったりとこなくなってしまった。2週間後、帰ってきたのりたまは、なぜか以前よりも小さくなっていて……。なにげない日常に潜む違和感と不安をユーモラスに切り取った、河合隼雄物語賞受賞作。
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現在Netflixにて配信中の番組の中に『ダレン・ブラウン -ザ・プッシュ-』という作品がある。心理を巧妙にあやつることで人は人を殺すことさえもできてしまうのか――。緻密につくりあげられた舞台でメンタリストのダレン・ブラウン氏が行った禁断の社会実験(ドッキリ)の模様を映したリアリティ番組、だそう。
私もよそで全貌をおおまかに聞きかじっただけなのであんまり詳しい説明ができないのだけれど、ターゲットは最後、自分にとって不利な情報を持つ相手を事故に見せかけられる今この状況で突き落とすかそれまでのすべての事実を受けいれて自らの社会的地位を捨てるかという2択を迫られます。
本書表題作の主人公や両親然り、「おばあちゃんの家」の“インキョ”で暮らすおばあちゃんと彼女をとりまくみのりたち家族然り、子供らしくよくも悪くも今この瞬間だけを見て生きている「森の兄妹」のモリオ然り。彼らの平凡でとても静かな違和感の根本的なところにあるものは、究極の2択を前に「押せ!」とけしかけられる極限状態の人々と通じるものがあると思うのです。
すなわち、今眼前にぶらさがる幸せのためなら見境なく行動できてしまう人がこの世界にはいるのではないか。自分自身もそういう人間なのではないか。いや、元来人間とはそういう生きものなんじゃないか。不穏な問いかけと胸のざわつきがいつまでも心のどこかに残る、という点で、この『ダレン・ブラウン -ザ・プッシュ-』を思いださずにはいられないのでした。
カッコウは別種の鳥の巣に卵を産んで子を育てさせる「托卵」という子育てが有名で、親は元あった卵をきっちり1つ持ち去って数をあわせておく用意周到っぷりだし、子は子で、生まれるとまわりの卵やヒナを外へ放りだして巣の持ち主に自分だけを育てさせようとするらしい。静かに、現金でしたたかな本書の登場人物たちはアヒルというよりもカッコウを彷彿とさせる。
個人的には表題作がやっぱり一番魅力的で、少し疑問が残ったまま読み終わってしまった「おばあちゃんの家」は〈ぼくちゃん〉に語りかける祖母の「みのりに語りかける時よりも、もっとやさしい」声を聞いてしまったときのみのりの心境が自分と祖母の距離感に重なって印象的だったのと、「森の兄妹」は童話「ヘンゼルとグレーテル」っぽさを感じつつ、刹那を生きる子供の視界に留まりつづけるというのは現実にはお菓子の家で暮らす魔女のように上手くはいかないものだと肩をすくめてみたり。
「鳥かえっこ(代替)」の物語
さて、今回は「あひる」「おばあちゃんの家」「森の兄妹」それぞれの感想をわけるのではなく、『あひる』という1冊の本全体を通した感想を書くことにします。というのも、個人的にこの小説は短編集でありつつ〈代替〉という共通のテーマを一貫した視点で描いているように感じたからです。
言わずもがな、「あひる」を漢字表記した際の「家鴨」は家畜化した鴨のことを指し、「家畜」とは人間が利用するために飼う生きものを指します。そしてたいていの場合そこには代替のサイクルがあります。アンデルセンの童話「みにくいアヒルの子」の中で親鳥が主人公のヒナ鳥を異質と見なしたのも、正常なヒナ鳥たちが代替品として他にたくさんいたからこそだったのではないでしょうか。
単行本刊行時とはデザインが異なるようですが、私が読んだ文庫本版の表紙に注目してみると、アヒルのイラストは花とともにコップに挿された状態で描かれています。切り花にもまた、枯れたらいつでも新しいものに変えることができる代替のサイクルがあります。そこに作品を象徴するアヒル。
一週間ほど前、あの場所で、みのりは孔雀を見た。桜の木のそばに、たしかに孔雀が一羽いた。孔雀はみのりと目が合うと、ふわっとどこかへ飛んでいった。一瞬のできごとで、夢を見ている気分だった。
(P75/L12 , P76/L1~2より引用)
本書に登場する鳥はもう1種類クジャクがいますが、のちに、この「孔雀」はキジだと明かされます。これは冒頭にも書いた、一見美しく見えるものにもまったくそうではない事実(しかしそれはキジぐらいありふれた普遍的な事実でもある)が隠れている、という作品構成の示唆だったようにもみえます。
もともと鳥類が苦手ということもありますが、私はクジャクを見ると、なんだかこわくなってきます。特徴的な尾もさることながら、個人的には、首から頭にかけての青の曲線もひかえめに言ってヤバい。フリー素材引っぱってきたの後悔してる。
動物。子供たち。家族。近所のおじいちゃん・おばあちゃん。クジャクを直視するのと同じように、世間一般の集合意識の中で美しいとされているものを「美しいもの」として見つづけていると、ときどき、得体のしれない恐怖を感じることがある。本当はキジ=身近なものだったとわかると、今度は安心して不思議と好きだという気持ちになってくる。――本書に魅力を感じる読者の心理とは、ずばり、そういうことなんじゃないかと。
『あひる』の目はクジャクの羽
「あなたの代わりなんてどこにもいない」
それは、誰もが一度は耳にしたことのあるとても素敵な言葉だけれど、本当に、はたしてそうなのでしょうか。
最近、安東みきえ『頭のうちどころが悪かった熊の話』を読んで、私は「池の中の王様」という短編にあった「ぼくの世界のたったひとりの王様を、大事にできればそれでいいんだ」という言葉がもう最高に好きなんですが、自分以外の人間も人間だと認めるのも自分以外の人間はみんなゾンビだって淘汰するのも私の世界の王たる私だし、あなたの世界の王たるあなただし、誰かの世界の王たる誰かだし。
たったひとり自分自身が認めてしまえば世界は案外なんでも容易に代替できるのだと、昨今世間をざわつかせるさまざまな代行サービスを見ていると、思ってしまうのです。それは、つねになにかにとってかわるものを生みだしながら進化しつづけてきた人間社会の本質の一部なのかもしれないけれど。
疑いの余地のない日常・平和・幸福を、本書『あひる』は淡々と見つめる。その無垢の目はまるでクジャクの羽に描かれた模様のように、じわじわと、私たちを落ちつかなくさせる。落ちつかないけれど癖になる。虜(鳥こ)になる。そんな、蠱惑的な読み心地の1冊でした。