望月麻衣『京洛の森のアリスⅢ 鏡の中に見えるもの』を読みました。『京洛の森のアリス』からはじまるシリーズ3作目にして、ようやく作者が書きたいこと・伝えたいことがわかってきたかもしれない。今回はとくにありすと蓮の恋の行方についてかなりやきもきしたんだけど、ああ、それこそがテーマだったんだなって。キーワードは「執着」。
未読の人はまずこちらからどうぞ:
「小説の登場人物」への執着
大好きなシリーズなので書店で見つけたときは脊髄反射で買ってはきたものの、正直、最初は読むのがすごく嫌だったんですよね。だって帯に「同居解散!?」とか「婚約白紙!?」とか書いてあったんだもん。
『ありがとう、ありす。大きくなったら、ありすを迎えに来るから。そうしたら――結婚しよう』
(『京洛の森のアリス』P30/L5~6より引用)
私は、ありすと蓮が絶対に結婚するという前提の中でそこまでの過程を楽しもうとこのシリーズを読んでいたんです。だけど実際に本書を読んでみると、
「まぁ、今にして思えば、恋というより、あれは『執着』やな」
(P106/L7より引用)
ああ、違うんだ、って。
ありすと蓮はこの物語の“お姫様”と“王子様”で、最初から「結婚」というゴールが見えているから、それがあたりまえだから、応援する。――私もまた、そういう、〈小説のお約束〉に執着していたんじゃないかなって。「結婚」という言葉に戸惑うありす、紅葉姐さんの言葉、新キャラ・梛くん、ありすの反応に焦る蓮、と見ているうちに気づきました。
趣味で短編小説を書いているから、小説の中の登場人物たちがときに作者の手をはなれてひとりでに動きだす感覚というのを私は知っている。だから、もちろん憶測だけど、ありすや蓮たちもそうだったんじゃないかと思うのです。文字で綴られた世界の中でそれでもなお自分らしく生きようと歩きだした彼女たちに対して〈小説の登場人物らしさ〉を求めるのは違う。それを途中で、自分で気がつくことができて、よかった。
これは以前、ショーニン・マグワイア『砂糖の空から落ちてきた少女』(原島文世・訳)の感想を書いたときとは真逆の視点からの感想ですね。なにもかもが決められた世界の中で何度でも物語を、こちらは“演じる”ことへの所感。併せてどうぞ。
作者だけに許された最大特権
本書を読み終えたとき、私の頭の中で流れたのが「夕映えプレゼント」という曲だったんですよね。まさかのデレステ。いや、アニデレ。
恋愛にかぎった話じゃないけど、世間に認知されたプロセスって本当にただの「統計」でしかなくて、人生というものが一人ひとりの“一つの物語”なのだとしたら、プロセスなんて自分で決めて自分が納得できればもう正直なんだっていいはずなんだ。
「成長することで、居場所が変わることもあるんだって。ここはもう手狭になってきていて、出ていかなければいけない頃合いだった。そんな時に、ナツメがここでカフェをしたいと言ってくれた。それって、時機が来たってことなんだと思うの」
(P116/L3~5より引用)
高崎卓馬さんの『表現の技術 グッとくる映像にはルールがある』という本の中に「起承転結は物語ではなく出来事の整理方法であり時間を操作してつくることは作者だけに許された最大特権である」みたいなことが書いてあって。
ありす自身の成長。
ありすと蓮の関係のステップアップ。
ありすと蓮とナツメが3人で育ててきた『ありす堂』という居場所のグレードアップ。
ネタバレになってしまうのであまり多くは語れませんが、上記のことを考えたとき、本書で施された時間の操作はまさに作者だけに許された最大特権、その好例だったのではないかと思うのです。
ごめん!式場建てながら待ってる!
今回はとくに仏教色(たぶん)が随所で利いていた印象ですが、やわらかく砕いた文章で「恋」や「仕事」など身近な例を出しながら、根気よく、丁寧に、気どらず、和風ファンタジーな物語として見せてくれる。まさしく中高生のためだけでなく大人にも手放しで勧められる作品たる由縁、ここにあり!と実感できる3作目でした。
エピローグを読むに終わりの雰囲気があるけれど、先日も終わってしまったと思っていた鈴森丹子さんの『おはようの神様』が読めたという一件もあるし、そこはまだわかりません。いや、終わってないから。ね?
お利口ぶって「執着」とか言ってみたけどさぁ、やっぱり、……もう本当にただのありすと蓮のカプ厨としてはね!王道の既定路線を最後まで見たいって気持ちをね!隠しきれない!正直今すぐここに式場を建てたい!ごめん!
式場建てながら、続編を、大団円を、待ってる。