最近は平藤喜久子『いきもので読む、日本の神話 身近な動物から異形のものまで集う世界』(ホリナルミ・絵)を読んだりね、1~2ヶ月に1冊ぐらい学術書とかビジネス書とか読んでる私なんですけど、いやぁ、先日とんでもないインプットの塊に出会ってしまったんですよ。ご存知ですか?砥上裕將『線は、僕を描く』っていう小説なんですけど。
物語としては、両親を事故で亡くしてから孤独な大学生活を送っていた青年・青山霜介がひょんなことから水墨画の大家・篠田湖山に慧眼を見出され、あれよあれよというまに弟子入り、水墨画を通して成長していく――という展開。なのですが、得られるものが多すぎて途中から勉強の脳味噌で読んでしまったので今回は感想ではなく1/10ページのドッグイヤーと6ページの読書メモによる個人的なインプットとアウトプットを残していこうと思います。
このあと約5000字読むのがしんどいという人は下手なビジネス書よりよっぽど得るものがあったということだけ覚えて帰っていただければ幸いです。
「いや、まじめというのはね、悪くないけれど、少なくとも自然じゃない」
(P66/L15より引用)
あー!最初にして最高の金言が出てしまった。
青山くんはまだ練習2日目だし、読者はまだ66ページ目なのに至言すぎる。まさか人生のうちで本当に口に出す場面があるなんて夢にも思わなかったけど現実に起こりうる現象だったんですね、「ガツンと鈍器で頭を殴られたような衝撃」って!
働きアリのうち2割はじつのところサボッているという〈働きアリの法則〉は有名ですよね。活け花の世界ではアンバランスこそ自然でありゆえに美しいということで奇数や非対称が一般的だし、不特定多数の第三者へむけたブログではあえて敬語をとっぱらった口調のほうが説得力と勢いが増すというのが文章術のひとつであり、見方を変えれば、〈この世界がどうあるか〉を描いたというピエト・モンドリアンの「赤、黄、青と黒のコンポジション」は整った垂直と水平で世界を捉える不自然さでもって“自然に表現する強さ”を獲得していると分析できるかもしれない。
「作品の雰囲気によって感想の文章も全然違う雰囲気になるからすごいよね」
成績表にはいつも「真面目」「誠実」と書かれてきた私にとって、それは短所なのだと思っていました。文章を統一できないのは意識が低いからだと。だけど、真面目こそが枷になっていて、本当は、感情にあわせてもっとも説得力と勢いのある文章を使いわけることができるというちぐはぐさがむしろ自然でこれが私の才能……なのかもしれない。
「そう。気づくと、ごく自然にそこにあって、呼吸しているものですよ。ふだん当たり前にやっていることの中に、才能ってあるんですよ」
(P12/L4~5より引用)
自然であることが表現に強さを持たせるのなら、感情を垂れ流すリアルさとライブ感を、このブログは大切にしていくべきなんじゃないか?
「何も知らないってことがどれくらい大きな力になるのか、君はまだ気づいていないんだよ」
「何も知らないことが力になるのですか?」
「何もかもがありのまま映るでしょ?」
(P81/L15~17より引用)
本を選ぶとき、見ているのはだいたい表紙かタイトルだけで、作者やあらすじや評判などその他ほとんどのことを知らないまま平気でレジに持っていく。あれこれ前に「合わない」と思った作家じゃんとか、2600円って普通に予算オーバーしてるwwとか、タイトルから想像していた話と全然違ったとか、あたりまえに失敗のほうが多い。多いけど、作品について前知識を入れることはまったくしない。このときの心境は上に引用した青山くんの兄弟子・西濱さんの言葉がまんま当てはまる。
西濱さんといえば、第2章で描かれた彼の水墨画のシーンは圧巻だったな。もちろん西濱さんの水墨画は活字でしか見ることができないんだけど、まるで青山くんの目を通してまざまざと見ているようで、嘘偽りなく、心が震える感覚がたしかにした。
作品に対しての無知だけじゃなく、人とコミュニケーションをとることが苦手であること、大学を中退していること、社会経験の乏しさ、人間としての無知が私の言動にはいつもつきまとってる。それがまわりに伝わってしまうことの不安や恐怖を和らげてくれたのも、西濱さんの水墨画だった。
「拙さが巧みさに劣るわけではないんだよ」
(P144/L10より引用)
西濱さんを評した際の湖山先生の言葉は読書にも通じるものだし、ひいては芸術すべてにきっと通じるもので、自分にも芸術の一端がしっかりあってそれを感知できたという事実は、単純にうれしい。
そこにいつも思考と想像の自由があるから、なによりも小説が好きだ。なにかにつけて私が人より拙いのだとしたら、拙さの余白にあるその自由を、これからは極めていきたい。画面がもう涙でなんにも見えません。
自然に任せて、ありのまま打ち明けること。
よし、これが、まずは第一歩目だ。
「難しい話をしても仕方ない。ともかく最初は描くこと。成功を目指しながら、数々の失敗を大胆に繰り返すこと。そして学ぶこと。学ぶことを楽しむこと。失敗からしか学べないことは多いからね」
(P142/L9~11より引用)
算数のテストのとき、途中式や筆算は消さないようにと先生は言っていた。どこでなにを間違えたか自分があとでちゃんとわかるように。私は、途中式や筆算に丁寧に消しゴムをかける。ここで間違えたというのが先生にわかってしまうのが恥ずかしくて。進研ゼミの漫画が再三描いていることだけど、自分が学んでいるという過程が目に見えてわからないと成長というのは楽しくない。なるほど、どおりで私、今なお算数が嫌いなわけだ!
今年10月に、川添枯美『貸し本喫茶イストワール 書けない作家と臆病な司書』を再読しました。4年前の初読の感想記事を読みかえしてもおもしろかったのかどうかまったくわからなくて、だもんで読みなおして、そしたらまーボロボロ泣いちゃって。例のごとく感情のままに感想を書いてみたら4年前とは比べものにならない良い感想が書けたし、それが、たまたま自身の刊行履歴を調べていた作者本人の目に触れるという奇跡が起きてすっごくうれしかった。
もうすぐかれこれ5年になるけれど、感情のままに書いているとやっぱり消したい記事というのはごまんと出てくる。納得のいっていない記事、無理して書いた記事、まったく反響のない記事。だけど過去の記事を消すことは片腕であるわかばが絶対許してくれない。許してくれなかったからこそこの奇跡的なつながりが生まれたんだと思うと、あれもこれも消しゴムをかけてきた人生、もったいないことをしたよなぁ。
満足な記事が書けなかった小説は随時リスト化しています。何年後になるかはわからないけど、きっといつか、またあの頃よりもずっと良いものが書けるでしょう。そのときはぜひ、私の失敗と学びと成長を一緒に楽しんでいただけるとうれしいです。リアルさとライブ感ね。
他にも引用したいところはたくさんあるけどここらへんで割愛するとして、自分自身の成長を一番感じたのは湖山先生のようになりたいと思ったところでしょうか。
最初はね、当然、主人公である青山くんの目線=教えられる者の目線で物語を読んでいたはずなんですよ。ところが青山くんと何度も湖山先生の元を訪ねるうち、いつのまにか、湖山先生のように教え伝えていく人になりたいって思うようになっていたんです。
感想というのは、どうしても小説ありきの表現だから。本当にこれは私の表現なのかって、やっぱり、考えてしまう。青山くんの目を通して物語を読んでいるつもりでも本当は〈ガラスの部屋〉にいる自分が物語を読んでいて、青山くんや湖山先生、千瑛、西濱さん、斉藤さん……自らの手で作品を生みだす人たちに、羨望や嫉妬、焦燥をどこかで感じてしまっている。人それぞれに適した表現の仕方があることはわかってる。だけど、目は外側の世界を見るためのものであって、内側の世界を見つめるためにはついていない。
先月だか先々月あたり、わかばと今後のMugitterについてミーティングしたときに守破離の話になりました。基礎は充分に確立したからそろそろブログの長所を伸ばして応用する方向にシフトしていこう。Mugitterは今、破と離のちょうど中間に差しかかっているんじゃないか、と。
で、感想ブログにおける破ってなんだろうって考えたときに、やっぱ小説の感想であることを覆すことなんじゃないかなって思うんですよ。これは以前散々話をしたことだけど、感想を書けと言われて「おもしろかった!」って書くことは誰でもできる。だけど1冊の小説から物事の〈考えかた〉を教えて伝えること、これはそれなりの想像力や根気がいるし破になりうるんじゃないかと。本に頼らない自己表現なんじゃないかと。それができる小説を吟味した結果が今回の小説であり1ヶ月ぶりの投稿というわけです。お久しぶりです。
これは完全に蛇足なんですけど、今後は生活に植物を取りいれていこうかなって思っていて。作中にも青山くんや千瑛が植物園で題材とする植物の実物を見に行くというシーンがあるんですよ。それで考えたんですけど、水墨画にとっての究極の技法が〈線を引くこと〉だとしたら文章にとっての究極の技法は〈言葉を紡ぐこと〉なんじゃないでしょうか。そこで頭をよぎるのが森晶麿『キキ・ホリック』でのキキの言葉。
『根も葉もない』という言葉がありますね。それは言葉というもののありようから言ってもかなりおかしいのです。言の葉と書いて言葉なので、根も葉もないことは、言葉以前の何かになります。私は人間なので言葉をしゃべります。嘘は言いません。
(森晶麿『キキ・ホリック』P39/L17~18 , P40/L1より引用)
言葉のその1つひとつが葉であるとしたら、植物を愛でることは、言葉の本質を追究するために必要なことなのかもしれません。とりあえず、今すぐできることとしてデレステで相葉夕美さんをプロデュースすることにしました。今こそ女子寮に住まわせていたSSR夕美さん(プレミアムカット)を招集するとき。
というわけで、砥上裕將『線は、僕を描く』を読んだ感想もとい個人的なインプットとアウトプットを書き連ねてまいりました。いやぁ、約5000字、終始自分のための文章。今回に関しては正真正銘自分のためにしか書いてない。私が個人的に守を終えて破へむかうためのただの画竜点睛だった。おい、見てるかよ未来の自分。自分の文章表現に誇りをもって生きていける人間になれよーっ!
もしかしたらほんの出来心でここまで読んでしまった人(聞き上手なあなたが好き)がいるかもしれないので、最後に少しばかり外向きの感想をまとめて締めます。
水墨画と出会った青年の成長物語を読んでいたはずが下手なビジネス書か自己啓発書よりよっぽど有意義なインプットをしてしまって読後困惑したのですが、偶然そのあと中田敦彦のYotube大学の哲学の回を観て腑に落ちました。
何も知らないということが力になる。それはソクラテスが説いた「無知の知」に通じるかもしれない。真面目は自然じゃない。それは自然の中にあるものを見ようというアリストテレスの思想「中庸」に通じるかもしれない。ああなるほど、自己を突きつめる芸術の根底には哲学があって、青山くんの成長過程は哲学史の流れに似ているのかもしれないなと。だからこの物語は水墨画というテーマでありながら普遍的で価値ある言葉に埋めつくされていたんじゃないでしょうか。
師とのドラマチックな出会い、美しい姉弟子との切磋琢磨、孤独な青年が才能を開花させてゆくさまなど、のちに漫画化されたこともうなづける設定ではありますが、決して天才の劇的な才能開花を描いたフィクションではなく、成長する人たちがおしなべて読むべき普遍的なバイブルなのだと私は思います。
好きなこと、極めたいこと、これからはじめたいこと、これまでにつづけてきたこと――あなたにはあるでしょうか?壁にぶつかったときはぜひこの本を手にとってみてください。長大で美しい1本の線は、きっとあなたをも描いてくれるはずです。