ある小説家が以前、タイトルは小説にとってもっとも長期的に打てる広告、みたいなことをTwitterに投稿していた。かえってそれを意識しすぎているのか、映画のポスターなど、日本の広告は情報を過度に説明しすぎるきらいがある。出版業界でいえば、文章がそのままタイトルになってしまうことも今や珍しくない。

 

その観点からすると、村木美涼の小説『箱とキツネと、パイナップル』は巧いタイトルだなとつくづく思う。一見作品を象徴する単語を羅列しただけのなんのひねりもないタイトルに見えるけど、これって作品の趣旨を極限まで抽象化したシンプルイズベストの結果であって、読めば読むほど「箱」と「キツネ」と「パイナップル」以外作品を説明するにふさわしい言葉なんてないのだから。

 

本を閉じてまっさきに浮かんだ感想が「一條次郎の『レプリカたちの夜』を辻村深月のテイストで書いた感じ」だったのは、とりあえず謎が提示されて最後には解明するミステリーの形ではあるものの、重要なのはそこじゃなかったからだ。キツネ信仰の話ということで読了後に加門七海『霊能動物館』を引っぱりだしてきたんだけど、個人的にはこれが作品の理解にすごく役立ちました。

 


 

まず「箱」というのは、ストレートに考えれば箱をかぶって窒息死したという大家の夫、それに付随して挙げられた安倍公房の『箱男』、そこから坂出がカスミ荘の部屋そのものを「箱」と見なしたこと、その話を聞いた藤井が自身の研究するキツネ憑きと「似てると思った」と言ったシーンの象徴だと思います。で、『霊能動物館』を読んだときおもしろいなと思ったのは、

 

考えてみれば、肉体が魂の器なら、今、こうやって思案している我々自体、人の肉に住み着いた憑きものであるとも言えるだろう。その容器に隙間があれば、ほかのモノが入り込むのは、なんら不思議ではないはずだ。

 

(加門七海『霊能動物館』P108/L9~11より引用)

 

人間そのものがそもそも器=箱だと考えることもできるんですよね。

 

生まれるためにまず魂を入れる箱が必要で、暮らしていくためにも居となる箱が必要で、自分自身あるいは自分が所属する社会を円滑にまわしていくためにもあらゆるカテゴライズ=箱が必要で、これは今気がついたけど、死ぬときでさえ棺桶という箱が必要で。

 

なるほど、私たち人間が元来「箱」を必要とする生きものなのだとしたら、箱をかぶって自己を否定し社会から隔離する、大家の夫にはじつのところなんの異常性もないんじゃないかと。であれば、凡人のふりをしてやっぱり〈カスミ荘の個性豊かな住人〉のひとりだった坂出が主人公で、かつタイトルに「カスミ荘」ではなく「箱」という普遍的な言葉を使ったというメッセージ性は、救いがあって、巧い。

 

個人的なメモ:

人間は元来「箱」を必要とする生きものであるという考えかたは紅玉いづき『大正箱娘』にも応用できるかもしれない。近代化された大正以前の時代なら、うららの浮世離れした存在感はキツネ憑きのように扱われたかもしれないし。2冊はセットで考えてもいいかもしれないな。

 


 

次の「キツネ」はもちろん地主とキツネ信仰と藤井の研究するキツネ憑きをあらわしていますが、引きつづき『霊能動物館』を読んでみると、どうもキツネ信仰自体がオオカミ信仰のすり替えだって話なんだよね。

 

曰く、西日本ではオオカミ信仰が失せほぼキツネ一色。そこには奈良の春日大社が関係しているのではないか。春日大社の神使は鹿だけれど、鹿を喰い殺すオオカミが神とあってはイコール春日の神より強い神になってしまう。そこで、鹿にとって無害なキツネにすり替えられたのではないか、と。

 

この「すり替え」というのは、たとえば現実世界での情報を置き換えて整理するという意味では坂出の夢もそうだし、前原一家の過去もある意味ではそういえて、梅下が見た〈鈴木さん〉とか、早瀬の進藤に対する想いとか、あと物理的にいえば配電盤がまさしくそうだし。

 

こういった「すり替え」をあらわすのにも「キツネ」というフレーズは有用だし、あと個人的には、『霊能動物館』の説くキツネとオオカミの動物神としての違いにも着目したい。

 

最古の動物神・狼は、自然と人間社会との距離感が、ひとつの要諦ようていだった。
最多の動物神である狐は、自ら人の世界に関わり、積極的に人と交わる。

 

(加門七海『霊能動物館』P99/L1~2より引用)

 

神でありながら自ら積極的に人間と人間社会に関わっていくキツネとその距離感は、作品につねにまとわりつく“気にならない違和感”の象徴にもなっている、とも思うから。

 


 

最後に「パイナップル」。これはもちろん藤井が持ちこんだパイナップルのことなんだけど、ここで考えたいのは「箱」と「キツネ」との関係性で、つまり「住む」とは「根をおろす」ことだし、「信仰」は「根づく」もの、なんだよね。

 

藤井の説明によれば、切り落としたヘタを土にのせておくと、そこから根と芽が再生し、伸びた芽の先にはまたパイナップルの実がなるのだという。

 

(P34/L16~17より引用)

 

加えて、パイナップルは食べるときに芯をくりぬくもの。芯がないとは、すなわち重要な”なにか”が欠落している現在の坂出をよくあらわしてる。

 

そんな坂出が(あるいはパイナップルが)、カスミ荘の片隅でこれから育っていく。成長していく。その未来に想いを馳せるとき、藤井が持ってきたものが「パイナップル」でよかったと、彼女の言葉に安堵する。

 

「ほとんど全部に実がなって、百発百中に近かったみたい」

 

(P35/L1より引用)

 

食べる前の、芯のあるパイナップルがいずれ実るのだろう。坂出の未来はきっと明るい。

 


 

未来の私へ

 

読了から2日間私用で作業ができない状況にあったので、4ページ(A6ノート換算)の読書メモと3日の構想期間をもってしてもここまでしか記事にまとめられませんでした。記憶の鮮度がもう賞味期限すれすれ。

 

箱をキュビスムとつなげて考えられないかとか、記憶の連続性が自己の証明になるのかを思考実験に絡めて追究したりとか、藤井の言う「そんな行動を通してしか訴えられない、何かがそこにあるから」は寝言にも通用するのか?とか、カスミ荘の住人たちそれぞれのエピソードは〈「信じる」物語〉だったという解釈とか、本当はこういうのも書きたかったです。

 

そしてこの記事の着地点はタイトルは35文字を意識しよう!とかSEOマンは言うけど文字数に関係なく削りに削って最後残ったものが本質だったり個性だったりするよなそういう意味で『箱とキツネと、パイナップル』は秀逸だよな、みたいな話だったはずでした。締めようにも文章がまったくまとまりません。

 

ので、再読するときはぜひこのあたりの考察をよろしくおねがいします。

 

読了したあと2日も放置するのはダメ、ゼッタイ。

 

2020年2月19日の佐々木麦より

 

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Writer
佐々木 麦 Sasaki Mugi
小説を書いたり、読んだ小説についてあれこれ考察をするのが趣味です。雑食のつもりですが、ユニークな設定やしっかりとテーマがある小説に惹かれがち。小説の他に哲学、心理学、美術、異形や神話などの学術本も読みます。