言葉について、小説について考える小説が好きだ。そんな理由で町屋良平『坂口あたると、しじょうの宇宙』を手にとったのだけれど、「好き」か「嫌い」かで問われたら答えるのが難しい。文体や展開に自分の考える「純文学っぽさ」がまんまあって、物語として見た場合に「おもしろかった!」とは言えない。言えないんだけど。
なんであたるの声だけ聞こえるんだ? おれたちの発する雑音に汚されても、こんなにハッキリした発音で。
(P173/L13~14より)
声が、聞こえてくるんですよね。15年あまりの読書歴でこんなことはじめてだから自分でもびっくりだけど、P167とか、読んでて突然あたるの叫ぶ声がはっきり耳元で聞こえる。そういう意味では間違いなく特別で。感想を残す価値は私にとってたしかにあったので。毅なら『コラージュ』というエントリーに集約させそうな、脈絡もなにも気にしない感想を、積みあげていくことにする。
文学的というか、とにかく自分の肌にあわない文章なのにするすると読めたのは、ひとえに毅の感性がとても魅力的だったからだと思う。
詩っていうのはふしぎなもので、自分になにかがあるんじゃないかとおもって書けば書くほど、自分になにもないってことがわかってくるものだけれど。自分の空洞を見せつけられるみたいに。
(P6/L6~8より引用)
思索と捉えたか、詩作と捉えたかわからないけど、どちらでも正しい。でも、どちらにせよまったく高尚ではないことはもうわかっていた。芸術なんてぜんぜん高尚じゃない。おれがやっているものが芸術なんだとしたらだけど。
(P24/L5~7より引用)
芸術の当事者でありながら、芸術を俯瞰しているような。他所の感想記事でも再三言っているように、私は芸術って作者の苦しみから生まれる作者のためのものだと思っているから、こういうスタンスで芸術にむきあえる毅は若くして成熟しているなと思うし、そんな毅が最後、スタンスもなにもかもかなぐりすてて詩や芸術にむきあうところに人間性があって、いいよね。炎は赤色よりもじつは青色のほうが熱いというけれど、そんな感じ。静かに、高速で高温になる。それが『坂口あたると、しじょうの宇宙』。
あたるのことばの結晶化を逃れたもの、ダイヤモンドの削りかすみたいなのを、おれが拾い集めてできているのが、おれの詩だ。おれの想像力も、創造力も、一%も含まれていない。
(P9/L15~17より引用)
毅が詩を書くたびにあたるへのうしろめたさを感じるように、私も、感想を書くときはいつも「これは私の表現だろうか?」って疑問が文字のいたるところにつきまとう。
まぁでも、哲学とか、世界史とか美術史とかここ何年かで勉強して気づいたけど、学問も芸術もあらゆるものが基本的には歴史の反証で成り立ってるわけで。他からの影響なくして人間は生きてはいけないわけで。デュシャンだって、希代の問題作《泉》について「彼はありふれた物品を取り上げ、新しいタイトルや、見方を与えたことにより、実用上の意味が消えるように置いたのだ」と作者の”選択”を芸術としてる。自作自演だけど。
タイトルには「あたる」とありながら主人公は毅だったこと。私にとって、毅にとっても、それは救いだ。たとえ削りかすであっても、あたるの「あえて語らなかった」あるいは「語りこぼした」言葉の中から選択して拾ったのは毅だし、毅のその行動力、その感性と文章能力を通してしか表現できなかったものがあるとしたら、それもまた1つの芸術なんだって思えるから。
一方、毅が羨んだあたるの才能っていうのは、あたるの書いた小説が新人賞の最終選考に残ったというあたりから翳りが見えはじめ、バグによって生みだされてしまった自分のAI「坂口あたるα」の躍進によっていよいよ追いつめられていく。羽海野チカの漫画『ハチミツとクローバー』ではぐちゃんにも森田さんにも悩みはあったし苦しんでたんだってわかったときの衝撃と一緒よ。才能ってのはスキルの1つであって決してチートじゃない。
「無理なんだよ」「読者になんて」「あたる」「もうなれないんだよ」「感想のすべてが、言うことのすべてが」「嘘になる」「あたるの言ってることは」「ぜんぶ作品になって」「みんな最初はよろこぶ」「けどどんどん孤独になっていくよ」「才能は周囲のひとをよろこばせるけど」「自分自身はけっしてしあわせにはしない」「才能に殺されて」「かわいそうだね」「もうほんとうの坂下あたるなんて」「どこにもいないんだよ」
(P106/L7~11より引用)
ここ、何度読んでもきついな……。毅たちと同じ歳の頃、私も熱心に小説を書いていたけど、まわりに同じ志の人間がいなくて本当によかった。あたるの立場も毅の立場もしんどい。このあたりは川添枯美『貸し本喫茶イストワール 書けない作家と臆病な司書』と似たテーマだけど、表現には「誰かのためのもの」と「自分のためのもの」があって、とくに後者の場合絶対にその枠を外して見てはいけないんだ、と思うなど。
北野唯我の『天才を殺す凡人』という本があるけど、最近でいうと槇原敬之の件とか、芸術において天才を殺すのは作者と作品を同一視する凡人の謝った集団意識で、いいか世間、作者にとって作品っていうのは〈自分の分身〉じゃなくて〈子供〉なんだよ。親の罪は子供も否応なく同等に償うべきなのか?違うよね。作者が炎上しようが不倫しようが薬やってようが子供たる作品が攻撃される理由にはなりえないよ。なっちゃいけない。そうやって優れたコンテンツを殺すのはもうやめてくれ――という話が出てくるのが拙作、お題短編小説「データに不正はなかった」。併せてどうぞ。
おそろしく自然な宣伝、オレでなきゃ見逃しちゃうね。
詩と小説。作者と読者。オリジナルとそうでないもの。その狭間に立ちつくす、「言葉にすること」を選んだあたると毅。なにかを好きになることはその一部になることなんだなって、思い知らされる。そこに自由意思は存在しない。突然、強固に結びついた逃れられない関係の中で、ひたすらに自分の才能の限界を追いかけて、見届ける。
ほんとうに「読める」たったひとりのひとに出会いたいんだと思う。そういう祈りを込めて書いているんだと思う。
(P112/L16~17より引用)
『坂口あたると、しじょうの宇宙』を「好き」か「嫌い」かで問われたら、答えるのが難しい。だけど身を削るように、祈るように言葉を紡ぐ人が、小説が、私はどうしようもなく好きだ。その一部に、物語あるいは言葉そのものに、私もならなければいけない。限界を見届けすらする覚悟で。
白昼夢のように、不思議ともう物語の内容を思いだすことができないのだけれど。線を引いた、言葉の断片1つひとつに、ありがとう。あなたも、私の大切な1冊です。