!ネタバレ注意!
本記事は今村夏子『星の子』に関するネタバレを含む可能性があるため、作品を読了している、または作品のネタバレを承諾する場合のみ閲覧することを推奨します。以上のことに同意したうえでお楽しみください。 |
初読は2019年12月なんですけど、私年末に読書合宿してまして、そのとき読んだ5冊のうちの1冊だったんですねこれ。せっかく考察がはかどることに定評のある今村作品なのにこのタイミングで読んでスルーしちゃったのは惜しいなぁと思って、4月になってようやく再読です。
改めまして、今村夏子『星の子』。一度目も二度目も、読んでるときはさ、なんだかすごくそわそわしてしまう。一見希望にあふれたタイトルだし、表紙には一筋の流れ星。芦田愛菜主演で映画化って帯を読んだらさ、普通ね、瑞々しい成長の物語なのかしらって思うじゃない。なのにさ、
進行方向に背を向けて座っていたせいか、自分が景色に突き飛ばされていくような、妙な居心地の悪さを感じていた。
(P20/L1~2より引用)
最初から最後まで、ずっと不穏。芦田愛菜が「Mother」に出演してたこと忘れてたわ。
身体の弱かった娘を救った“奇跡の水”は、当の本人からすれば、それでタオルを湿らせれば「一度も使われていないおしぼり」と見分けがつかなくて。両親がそれを強く信じているのは「わかってる」。わたしは?「わからない」。
成長物語だったら、普通、「成長前」があって「成長する瞬間」があって「成長後」までちゃんとしっかり描かれているはずなんですよ。でないと私たち読者がそれを〈物語〉として楽しめないから。だけど『星の子』は「成長前」があって「成長する瞬間」があって、「成長後」がない。それは少なくとも作者にとっての『星の子』が、主人公・ちひろの成長の物語ではなく、ちひろと家族の物語だったからなのだと、巻末の小川洋子との対談を読んで思いました。
「でね、そのにせものの学者も誰かにだまされてるの」
と、なべちゃんはまだ話をつづけた。
「誰に?」
「知らない」
「適当なこといわないでくれる」
「でね、その学者をだました誰かも、やっぱり別の誰かにだまされてて、その別の誰かもそのまた別の誰かに」
「もういいって」
(P112/L8~15より引用)
昔ね、マーク・ハッドンの『夜中に犬に起こった奇妙な事件』(小尾芙佐・訳)を読んだときに「みんなそれぞれに優しさが空回りしている、そんな“不器用な優しさの世界”という印象でした」という感想を書いたんですけど、『星の子』もすごく似ていて。
なべちゃんが言うように、いっそ、明確な悪がどこかにいればよかった。ところが両親をはじめ、ちひろを取り巻く人間たちは、基本的に善意でそうしている人間か、あるいは俯瞰で見れば「普通の」人たちしかいない。そこがすごく、すごくね、息苦しい。
星といえば空だけど、私の中にはずっと海のイメージがありました。深海。静かで、暗くて、息ができない。このままねむってしまえたら楽になれるだろうか、と。
私がほんとうに何も知らずに読んだとしたら、この家族にとって一番幸せな終わり方だと感じると思います。
(「対談 書くことがない、けれど書く」P243/L10~11より引用)
ラストをどう読むか?については、私初読はめちゃくちゃ不穏に感じていたんですよね。「気がした」のではなく本当に海路さんと昇子さんがあの場にいて、両親は2人がちひろに近づくための時間稼ぎまたは拘束の意味で「両側から強く抱きしめられ」たり「腕に力をこめた」りしているんじゃないかと。もっと深読みすれば、流れ星とは今まさに両親の庇護から離れようとしているちひろの暗喩であり、流れ星になった彼女にはもう触れることができないとわかっていながら、なおもつなぎとめようとする両親、そしてなお2人に歩みよろうとしてしまうちひろをあらわしたシーンなのかなと。
けど再読したら、今はまた違った印象で。あくまで現状維持なのかなと。というのも、ラストシーンの3人の構図って、P11で母の日記にはさんであった記事の切り抜きとまったく同じ構図をしてる。両側から両親がちひろをぎゅっと抱き、ほっぺたに顔をくっつけている構図。これで、少なくともあの一場面での親子は「幸せ」だったんじゃないかなと思いました。あ、まわりは関係なくて、私たちは幸せって部分はシャーリィ・ジャクスンの『ずっとお城で暮らしてる』(市田泉・訳)感もあるな。
あそこに海路さんと昇子さんがいた可能性は、作者自身が対談で「書き直した」と言っているのでなかったと考えていいのではないでしょうか。なにより、メタいけど最後に「その夜、いつまでも星空を眺めつづけた」とふりかえるちひろは絶対〈あれから幾ばくか時間が経過したあとのちひろ〉のはずで、そのちひろがたとえばP158では両親から距離を置くべきだと心配する叔父一家に「わかっている」と答えた、と語っているので、ラストシーン後に昇子さんの催眠術で懐柔されたとは考えにくい。洗脳されたのであれば、語り手である現在のちひろが両親や両親の信じているものについてあそこまで複雑な心情を抱えていたことを記憶しているはずはないからね。団体にとって不利な感情だし。
だから、ラストを私は「現状維持」と読みます。幸せではないと思う。だけど、彼女たちは幸せ。
タロットではね、「星」って、正位置なら「希望」「ひらめき」「願いが叶う」、逆位置なら「失望」「絶望」「無気力」「高望み」「見損ない」って意味があるらしいんですよ。
なるほど、両親にとっては身体の弱い娘が元気になったことは「希望」であり「願いが叶った」ともいえるし、一方怪しい宗教にのめりこむ両親の元でちひろはときに「失望」こそすれ複雑な感情を抱きながら結局は現状維持、そこはちひろが「無気力」ともいえるし、読者にとって「絶望」のまま物語は唐突に終わる。
単純にラストシーンの光景であったり、今まさに娘が親元を離れて手の届かないところへ飛び立とうとしている瞬間の家族の距離感をあらわすだけじゃなくて、そういった意味での「星」という意味もあったのかなって私は考察しています。