本を開く=ドアを開けるだとしたら、靴をそろえもせずにほっぽって、ついでに靴下も放り投げて、語彙力とか読解力とか想像力とか御大層な名前のアウトプット能力全部脱いで襟とかゴムとかだるんだるんの部屋着に着替えてとりあえずベッドにダイブするような。
「この恨みは忘れないからね」
「この味は忘れないでござる」
(P32/L13~14より引用)
あ~~~~~ _(:3」z)_
圧倒的。圧倒的実家のような安心感。大真面目に清水将吾の『大いなる夜の物語』の感想とかまとめてたこのあいだまでの私霧散した。これだよこれこれ~!待ってた!続編信じて待ってたよ~!ポコ侍おかえり~!今作「おやすみ」だけどな!うはははは!
22ページぐらいから即語彙力が死にました。好きすぎる。
本書の構成はこれまでの作品と比べてちょっと特殊なので(最終話「恋愛の神様」に集約していくのでそれまでの短編は完結しないまま終わるという印象)1編ごとに感想を書くといういつもの手法をとれないのが、1作目から追いかけてきたオタクとしては大変心苦しいのですが。
祖父が社長を務める小さな造園会社で家族のため、自分のために“役目”をつくって、自分でこさえた檻の中で他人を羨み、だけどそれはいけないことだとぐるぐる思いつめてしまう吉良恵ちゃん。
芸をすれば褒美がもらえるような、告白すればつきあえるという確証のない恋でも「このまま進むよ」と決めた、ピュアでまっすぐな、好きな人ができたと思いきや好きだった人があらわれそれを好きじゃない(でもかわいい)神様に相談しているというシリーズ史上一番訳わからんことになっている小宮くんことコタツくん。
まさしく趣味のボルダリングのごと、“自分が入社できなかった企業を辞めて大道芸人になった女”という苦手意識あるいはコンプレックスの壁を越えて彼女に惹かれていく自分を認めた神木さん。
すべてを失う覚悟で大道芸人という道を選んだからこそ、「これまで、私のしていることは間違っていると反対する人は沢山いたけれど、大丈夫だと肯定してくれた人は、神木さんが初めてよ」とおそらくシリーズ史上最速でほとんど神様の力も借りることなく自分の中の恋心を受け入れた弁天さん。
恋愛小説の中で恋愛にうつつをぬかすことなくそれぞれの夢と一生懸命にむきあう登場人物は今回も相変わらず、誰もかれもが魅力的でした。
皮肉にも神様という存在が運命の糸をこんがらがせ、また神様という存在によってそれぞれほどけて結ばれていく最終話「恋愛の神様」は展開がややドラマチックすぎたり筋道の決まった物語くさくも感じましたが、完結編で新キャラを出すあたり、
一緒に食べて、一緒に眠って、生活の中に溶け込んで。そうやって、顔を上げて前に進もうとする人達をこれからも、神様は見守っていくのかもしれない。
(P275/L13~14より引用)
たとえページを閉じても、本のむこうで縁を結んだ人々とこれから縁を結ぶ人々、彼らの日々を行ったり来たりする神様たちの暮らすこの世界はずっとつづいていくのだ――という希望が持てて心が“まんまる”になりました。
※以下ラストシーンに触れるため白字表記です。自己責任で、反転してお読みください。
ところで「神様も恋するの?」という問いに対してポコ侍さんは「無くはない」と言っていましたが、終章の狸とビーバー、最後のくだりはつまりそういうことでよろしいか?まぁ、よろしくなくてもそういう体で妄想しますけど!勝手に妄想して萌え転げるのが我々オタクの仕事なので!
どれだけ時間と文字を費やしても基本的にはお金もリアクションも得られない孤独な作業の中で、私の心も、しょっちゅう迷子になります。
だけど、そういうときにかぎって、それこそ神がかり的なタイミングで誰かが「ありがとう」「おもしろかった」と言ってくれる。誰もなにも言ってくれなくても私が私に「好き」と言ってあげられる。
迷子になっていたあの頃の私のように彷徨っている人がいるなら、神に救いを求めてほしい。きっと思っていたのとは違う神様が来て居座るけれど、マヨ臭くて無遠慮で小さくて温かい、そんな前足にちょんと背中を押されて、一歩前へ踏み出せる勇気が持てるはずだから。
(P275/L9~12より引用)
どちらにしようかな。迷子になったときは、神様の言うとおり。「好き」という気持ちをまっすぐに。私は小説が好きだ。読むのも書くのも。それらにむきあっているときの自分も。
インターネットの大海原で、どれだけの人が私の文章を読んで喜んでくれているかはわからない。でも、年間約2.5万人、それだけの人の日常に自分の文章が一瞬まぎれこんでいること――そうか、それを考えるのは、ちょっとわくわくするな。