私なんかほとんど毎日読書感想文を書いているんだぞ。
— 佐々木 麦 (@BLT691) August 24, 2017
2020年8月。今年も、自分のブログの人気記事一覧に読書感想文特集が急上昇してきたことで夏の到来を実感しています。学生のみなさんお元気ですか。こちら、ただの趣味でほとんど毎日読書感想文を書いている佐々木麦です。
読書感想文といえば頭を悩ませるのは規定された原稿用紙の枚数ですね。今年はみなさん何枚以上(以内)と言われましたか?私の学校はたしか5枚程度、だったかなぁ。2000字。このブログの、ちょっと調子悪いかな?ぐらいのときの文字数ですね。
それはさておき、私はといえば藤野可織『来世の記憶』を読んで感想を書いたところ、なんか9000字超えてました。9000字。原稿用紙換算だと22枚強あります。過去最高記録かと思いきや、残念、最高は上田早夕里『夢みる葦笛』の感想で10568字です。まぁ当時は短編集だとそれぞれの話のあらすじも書いていたのでその老婆心抜きにしたらいい勝負なんじゃないかと。なぜ私は過去の自分と張りあっているのでしょうか?
というわけで、1万字は越えられませんでしたが酔狂な方はだいたいそれぐらいの感想どうぞ。
本書のタイトルは『来世の記憶』なんだけど、じつは表題作(と見せかけた)あちらは「前世の記憶」なんですよね。
「前世の記憶」というのは前世の記憶を保有していることで心境の変わった主人公を描く作品で、つまり「来世の記憶」とはこれから読者が読む本書の作品群を指しているのだと思います。来世は未来。全編SFめいた非現実的な世界観で描かれているのも納得です。
たとえば私の感想もそうですけど、読む前、途中、後――〈来世の記憶〉を保有しているかどうかで心持ちも随分変わってくるでしょう?ピアノがトランスフォームする話を集合的無意識に結びつけて自分は自分のやりたいことをやっていいんだ!と踏ん切りをつけるなんて思ってもみなかったもん。
「前世の記憶」の主人公は「あたし」。だけど『来世の記憶』の主人公は私たち1人ひとり。そこが両者を明確に分ける違いなのではないでしょうか。
前世の記憶
木曜日創造説というのがあって、たとえば日本にも歴史ある建造物はたくさんあるけれど、こうしたものは神が“わざと”古く見えるように造ったのであって、世界とは先週の木曜日に創られたのかもしれない、と考えることもできるわけです。
だとしたらそれ以前、たとえば前世の記憶とか、木曜日よりもっと前の記憶があるというのは主人公のように神にとってその個人が「そう思わなければいけない理由」があったと考えることもできるのではないでしょうか。
生きていると、拭い去りたい過去の一つや二つ誰にでもあるものです。そんなときは木曜日創造説に想いをめぐらせ、なぜ自分はこの記憶を保持しているのか、そんなふうにちょっと俯瞰して考えると気休めくらいにはなるんじゃないでしょうか。
眠りの館
私が私であることを証明するものが記憶の連続性である場合、寝ているあいだ意識を手放す私たちは死んでいるも同然であり、すなわちこの主人公は白亜紀や戦争といったスケールの大きな事象には巻きこまれつつも結局のところ生きたり死んだりをくりかえしている。それは寝たり起きたりという私たちの小規模な生死となんら変わらないのではないか、と考えさせる話ですね。
ラストシーンに地球防衛軍みを感じたのは地球防衛軍6の発売を知ったからだと思います。カエル宇宙人倒すのめっちゃ楽しみー!
れいぞうこ
child(子供)とchilled(冷蔵)をかけてるなかな?
アイドルなんかを見ていても、女性は25歳あたりを過ぎると定年なんて言われていて、一方男性は長い下積みを経て20代からが本番みたいな風潮ありますよね。クリスマスケーキの例えが最たるところ。女性はとくに容姿や年齢を小さいころから意識させられるのが窮屈で、見ていて心苦しいです。
過剰なダイエットや整形に顔をしかめる人もいますが、社会がそうさせる一端を担っている、という部分にもちゃんと目をむけてほしい。
ピアノ・トランスフォーマー
こわいよねぇ。冒頭読んでぞっとしちゃった。だって、日本はかつて付喪神を信じているような国だったんですよね?そんなピュアな信仰心と表裏一体に、物をボロボロにすることを美談にするような、物や付喪神からしたらとんでもない暴力性と傲慢さを持っているわけで。ボロボロになるまで使うのが美しいのではなく、本当は、ボロボロにならないように長く大切に使うことが美しさなのにね。消費社会が見せている幻想。信仰心って適度には必要なんだと思います。
ピアノが自我を持って自ら演奏するというのは、肥大し、加速する集合的無意識のようにも感じました。世論は生きもので、育てているのは私たち。「これが美しい」という一個人の感性がやがて「これは素晴らしいものらしい」という芸術になり、これができると一線を画すという流行または承認欲求の餌になって最後は人間のほうが集合的無意識に喰われる。あとは集合的無意識の一部になるだけ。
最近は人に読まれる文章ばかり意識していたので、個人的にはっとさせられる物語でした。自分が好きなことを好きなように好きなだけ。時代が勝手についてこいという強いマインドで生きていきたい。
フラン
これはもしかしたら、大量消費を揶揄する小説ではなく、大量消費社会を享受する、少し未来の別世界で悟ったマイペースな人たちの物語なんじゃないか?そして、それを見させられることによって私たちは消費社会と個人主義を批判してしまうという高等テクニック。
それは作者がというより、作者が描く少し未来の別世界にある“生きている集合的無意識”が自分の意思で読者にそう働きかけている、ともいえるわけで。この静かにわけがわからない狂気めいた混沌ってすごいなと。
自分でもなにを言っているのかあんまりわかっていません。
切手占い殺人事件
「もしも美人ばっかの世の中じゃみんな平凡なのさ」
モーニング娘。『女が目立ってなぜイケナイ』の歌詞です。まだ誰にも、本当の意味で届いていないものが個性になる。その個性を表に出して持ちよれば、個性は死んで平凡になる。誰かに一度届いてしまっても死ぬ。切手のように、一度でも消印がつけばあとはなんの効力も持たないから。承認欲求に突き動かされている人たちにとっては。
個性が叫ばれる時代。切り売りされる個性。ああ、そういえばまさしく切手は切り売りするものではないか。個性は集めてやりとりするもの。個性が妬まれ、奪われ、肉体的あるいは社会的に殺す理由になる時代。
キャラ
キャラが卵形というのは興味深いですね。Twitterのデフォルトアイコンを指してるのかな。基本的には平等に、文字だけを有して、誰もが平等な立場に立てる世界。Twitterはもはや可視化されたペルソナといっても過言じゃない。
この短編は上下に多めの余白があるのが特殊だけど、この余白が強靭な人工皮膚とやらをあらわしているんだろうか。
あたりまえだけど、縦×横の文字数を変えれば1行に割ける文字数は減る。限界文字数が減れば言葉は簡略化される。極限まで削いだ2文字の言葉は基本的に攻撃的だ(私調べ)。当然、そこには誤解が生じる。物事をとにかく考えない人が有利な世界。それはまるでTwitterのようだと、私は思うのですが。みんなはどう?
時間ある?
調べたんですけど、サンスベリアは風水的に見ると厄除け・魔除けの効果があるらしいです。
主人公は親友のことを軽蔑していました。部屋にいるはずの親友、そしてその夫や両親すべてを厄あるいは魔と思っていて、それを払うためにサンスベリアを贈ったのだとしたら、部屋に彼らがいないことにも説明がつくし部屋中に鬱蒼と茂ったサンスベリアが最高に邪悪。こっわ。
おそろしい勢いで繁殖することからミントを庭に植えることを「ミントテロ」なんて言ったりしますが、あれの亜種かなと。主人公が親友の新居へ行くまでにこれだけの時間をかけたのはすべてが浄化されるのを待っていたとか?
スパゲティ禍
マジョリティは、ぼくらマイノリティには良心がないのだ決めつけた。スパゲティに生理的嫌悪を抱かないなんて、人間としてもっとも大切で決定的なものが欠けているというわけだ。
(P124/L8~10より引用)
主人公が異常だとは、私は、思わないんですけどね。だって毎日のように誰かが死んでいくこの残酷な世界で、赤の他人の死を、私たちはいちいち心から悼めるのでしょうか。芸能人の訃報なんかもそうです。本当に故人を悼む人であれば、訳知り顔で人前やあるいはインターネットにしゃしゃり出てお悔みの言葉なんて発表しないと思うんです。本当に大切なことほど、人は、言葉にはしない。
1羽丸々の鶏肉を見て、鶏肉はもう食べられないねと誰かが言う。でも、食べられないねなんて思っているのはほんの数日間くらいのことで、いつかはきっとまた食べる。食べてしまう。
世界のすべてを自分ごとにして感じられる・考えられる人は殊勝だけど、人類みんながそうはきっとできない。それははたして、幸福なことなのか、不幸なことなのか。
ところで、身体中が管だらけの重症患者のことを「スパゲティ症候群」というそうです。人はスパゲティになって死ぬ。それとは別に、食の本能に抗えずスパゲティを食べる人たちがいる。マイノリティとマジョリティで人々は分断される。私たちの世界は今日も重症化している。
世界
世界っていう言葉は厄介で、広義は地球あるいは世間などのことをいうんですけど、ほとんどの人にとって実際にはその人の影響の及ぼせる範囲までしか世界じゃないんですよね。この一個人の世界のうちどれが本当の世界に近いのか、という話。正解なんてありません。そもそも地球とか世間的な意味の「世界」すら、先人がだいたいこのぐらいまでの範囲でいいだろうって憶測や妥協で定めた言葉なのだから。
ここ数年、単に歳を重ねたりあるいは人間関係に恵まれたおかげで自分の考えかたや行動がかなり変わって、じつは昔の記憶はつくりもので数年前まできみカプセルでコポコポしてたんじゃない?なんて冗談で言われるんですが。世界の構築って究極認識の強さだと思うので、今の自分が正しいと思えば過去の自分って簡単に世界じゃなくなるよね。
ニュー・クリノリン・ジェネレーション
同時に、私たちは思い知った。脚のかたちを見えなくしたところで、欲望が消えてなくなるわけではないということを。
(P151/L14〜16より引用)
これは人の受け売りなんですけど、進化論って絶対嘘だよねと。体内に隠すとか、他に進化方法あったのに未だに男は急所を外にぶらさげてるしと。そういう進化の話です。
進化といえば、私は思考できる脳が人間を人間たらしめていると思っているので、最終的に手足は退化してヘビかあるいは生命の根源たる精子の形になるんだと思っています。脳味噌自体とぐろを巻くのが超絶下手なヘビが丸まった姿に見えるし。
鈴木さんの映画
悩み相談って、最終的に相手を納得させた人が勝ちで、人に相談を持ちかける人っていうのはじつのところ自分の中にもうおおよそ答えがある場合が多い。他人から背中を押してもらいたいだけっていう。
だから悩み相談が上手い人って、頭がいいとか人生経験豊富とかではなく、単純に相手をその気にさせるのが上手いということなんでしょう。だったら、聞こえは悪いかもしれないけど、相手のことを深く想わないほうが自分がこうしてあげたいって欲が出なくて素直に相手の背中を押してあげられるんじゃないかと。まぁ、それって相談した側からすると真剣みに欠けるけどね。
そうやっておたがいがわだかまりを抱えるくらいなら自己解決が一番スムーズだし、それが難しいなら、わからないものはわからないままにして悩むことを放棄するのが健全なのかもしれないな、と思いました。
眠るまで
これといって深い意味はないけど単純な興味で死体の写真を見てる、みたいな人は結構普通にいますよね。私は学生のときに一時期、未成年者の犯罪の記事をとれといって深い理由もなくスクラップしていました。自分と同じくらいの年齢の子がどういう経緯でどんな犯罪を犯してしまったのかに興味があったんですよね。「死にたい」というより「微妙に痛いのが気持ちいい」みたいな感覚で手首ちょっと切ったらやめられなくなったりもしましたし。程度に差はあれそういう感覚って誰にでもあるような気がします。
ネグリジェと世界美術大全集
西洋美術史の本を読んで驚いたのは、自由に思われた芸術家たちが実際にはまず今の時代の実態とその問題点を汲みとってちゃんと理解していて、それをあくまで美という範囲の中でさまざま試行錯誤しながら破壊して革命を起こすっていう、あくまで西洋の美術史はそのくりかえしでここまできたということ。同じルールの中でそれだけの隆盛と崩壊が起きてる。ちなみに日本の美術史の特徴は継承なんですって。伝統や手法を次世代に託してつなげていく歴史。なるほど。
反証のためにはまず必要最低限のルールは守ることが前提だという話です。どれほどの天才であってもそれ以前に私たちは皆人間であり、人間という集合体の中にあってはじめてそれぞれの個は表出するもの。群れることはもともと人間に古来から備わっているスキルであり、基本的にはそう悪いことではないはずです。
同じように孤独だったAさんとBさんが、仮に結託して自分を理解しない人間たちに呪いをかけたとして、主人公たちは彼女たちの常識で一からまた新しい生活をはじめるだけ。他人を変えることは難しい。ならばまず彼女たちを理解して、そこから試行錯誤して、己に革命をもたらす。
人間関係にはそんな美術史のセオリーが応用できそうです。
スマートフォンたちはまだ
スマートフォンの「スマート」って薄型という意味じゃなくて賢いのsmartだって、どれぐらいの人が気づいてるんだろう。私は最近まで知らなかった。
人間がAIの隷属動物にならないために求められるのは感覚的な創造性だと思う。
ほら、きれい。夕焼けだ。
夕焼けじゃない。あれは朝焼け。
(P198/L5~6より引用)
主人公は咄嗟にスマートフォンで時刻を確認しようとするのだけれど、重要なのは夕焼けか朝焼けか、その正確さじゃない。たとえば日本語には「~のような」というとても便利な言葉があるのだから、夕焼けのような、朝焼けのような、もとより時間という概念自体先人が便宜上つくったものなのだからそこはどちらでもいい。とても奇妙な色をした空を見た。私の、この目で。大切なのはそこだ。
むしろそこをどれだけ遠まわりして、紙幅を割いてあらわすことができるのか。日常になじむ素朴で親しみやすい、かつ、陰で洗練された無駄づかいこそこれからの私たちは磨いていくべきなのではないかと考えるなど。無駄なんて、賢いスマートフォンたちにはまだ搭載されていないはずなのだから。
怪獣を虐待する
プリキュアのことはまったく知らないけど、怪獣と組みあって物理的な攻撃で倒すというのはやっぱり男性ヒーローのイメージ。とくに日本では〈魔法少女〉という分野が確立されていて、その点ヒロアカは男女平等っぽいけど、少年漫画だし、女性はどうしても戦隊もののピンクみたいに脇役で、たとえばヒロアカの女の子主人公みたいな話があるとおもしろいのかな。鍛えて、物理でしっかり闘う。ゲームでは格闘タイプの女性キャラも珍しくないけど、日曜アニメはどうしてこういうのつくらないんだろう。やっぱりまだまだ男女で区別をつけたがる人たちが親やクリエイターやってるのかな――。
とか最初思ってたんだけど、後半から感想がらっと変わってしまった。
まるで、悪の秘密結社とヒーローのように。男は力を誇示することで女に優位性を示し、一方、女はそんな男の前ではさも理解しているという態度を見せ内心馬鹿にすることで男に優位性を示そうとしている。“誰か”を対立の位置に置いて、絶対に勝てるという状況下で虐待しなければ自己を確立できない人間たち。
人を踏み台にしなければ主張できない個性なんて絶対に個性じゃないから、たとえこの文章を理解できない人間がいようと支持してくれる人間がいようと、私は私のために物語を読み、考えて、私の物語として編むことを変わらずつづけていこうと思います。
植物装
じゃあ、花は女の子? それとも男の子?
(P221/L2より引用)
短くてシンプルな話だけど、すごくよかった。「私は、私の中にいる少年や若い男や中年男や老人を祝福してこれを着てる」というのも、小説を書いたり、そうでなくとも読んだ小説の雰囲気にだいぶ引っぱられてそのときどきで文章のテイスト変わる私なので親近感があったし。実際この感想も、私の体感ではそれぞれ作品によってだいぶ雰囲気変わってます。下書きは自由に書かせて清書で「私」に統一してる感じ。
私はね、頭の中にマンションがあるんですよ。気に入った人格を住まわせておくマンション。脳内トモダチコレクションだと思ってください。それで、小説の感想を書くときには主人格とほぼ同一の「私」と一人称「自分」の人格がいるんですよね。感情が主体でやわらかめの文章書くときが「私」で物語のテーマを分析して硬めに仕上げてくるのが「自分」。特徴として後者はあまり一人称が出てきません。その他に、小説を書くときには一人称「僕」の少年/青年に語らせたり、一人称「おれ」のちょっとわんぱくめな子供がいたり、「俺」はのらりくらりとした青年だったり、「私(わたし・わたくし)」でそれぞれ中年の男女がいたり、「わたし」という20~30代くらいの女性がいたり。地語りだと淡々と事実だけを述べる新聞記者風と純文学っぽい語りの文豪風(それぞれ男性のイメージ)、ノーマルなナレーション(これは女性のイメージ)がいます。書きたい作品のイメージにあわせて、適宜彼らに脳味噌明けわたして自由に書かせてるって感じです。ネタ出しと最終的な調整は主人格の私がやるので、調整のとき「あー、これ最後こういう展開になったのか!」って他人事のように感心できるのが楽しい。
文章の書きかたを教えるときにこの話をすると人には「?」みたいな顔されるんですけど、実際どうなんですかね。物書きでなくともあまり珍しい話じゃない気はしますが。ちなみに、「植物装」の感想は文責「私」です。前2つとかは「自分」。
鍵
相手はおばあちゃんだからとか、俺は男だからとか、きみは妊婦なのだからとか、そういう偏見も自分やまわりの人間を封じこめる鍵と考えられますね。そして鍵は閉めるだけでなく開けるものでもある。封じられた内面の解放。
殴ろうとまでは思ったことなかったけど、私も大学生の頃帰りが遅くなるときは必ず携帯電話にぎりしめていつでも通報できるぞ、という構えで帰宅していました。
ブスだし誰も襲ってこないだろとタカを括ってはだめなんです。世界は広いので、私のような人間の胸や尻でも触りたい学生はいるしナンパしたいカタコト外国人がいるのです。普通にこわい。みんなも自己肯定感は低くても毎日警戒は怠らずにいこう。
誕生
※ラストシーンについて言及しているので白字表記にしました。反転は任意でおねがいします。
不穏。不穏でしかない。ゲームだったら最後の夫の言葉を信じるか信じないかでエンディング大きく分岐するんだろうな、と妄想するなど。
たとえば夫の言葉を信じるのであれば、世界はとっくのとうに崩壊していて、そんな環境下で新たな命が誕生するというのは、少なくとも夫の希望にはなるわけです。「これなんですか」のくだりとか主人公が赤ん坊に対していやにドライなところが気にならなくもないですけど。ただ「早くも傷を抱えたまま歩くのに慣れた」というあたりこの主人公なら案外たくましく家族を引っぱっていくんじゃないかとも思います。母は強しですね。
一方、夫の言うことを信じない場合は、やはりあの夜決定的ななにかが訪れてしまったということになります。こっちのほうがバッドエンド感ありますよね。ここがスタートなら病院の体制とか諸々整ってなさそうだし。一転してこっちだと主人公の精神面が心配になってきます。子供が希望になれたらいいけど、子供にイマイチ実感持ってなさそうな主人公だしなぁ。
いつかたったひとつの最高のかばんで
たまに、学生鞄を提げたおじさんおばさんを見かけます。おじさんのほうが多いかな。オーソドックスに色は紺色で肩紐はグレー。なんでおじさんがって思ってたけど、よくよく考えたら学生鞄って何冊もの教科書を入れるために設計されてるわけだし、きっと頑丈なんですよね。そう思ったら学生鞄今めちゃくちゃ欲しい。本とかタブレット持ち歩いてるから大きくて頑丈なの助かるし、マチがあって形崩れにくいのもグッド。
初め、ブログをつくるときにペルソナ設定が云々みたいなこと方々に書いてあって。どういう客層に自分の商品を売りこむか、性別や年齢、果ては家族構成や生活スタイルまで具体的につくりこめっていうんですよね。でもさー、自分で自分の商品の可能性とかモチベーション絞りこんでどうすんの。好きにやったらいいじゃん?それで、野菜の無人販売みたいにそのときどきで必要な誰かに届けばいいかなって思って、マーケティングの勉強はさっさとやめたのでした。趣味だしね、これ。
今の私に通学鞄が魅力的なように、誰にとってなにが「最高のかばん」になるかはわからないから。ウチのブログは誰でも歓迎です。本のおもしろさを楽しむのではなく、本を読んだあとにあれこれ考えるアウトプットの楽しさを、共有していきましょう。
以上です。
小説の感想で最後に記事あげたのっていつだったっけ。7月8日?ひぇ……。7月8日の記事もゆうて調子悪かったし、この1ヶ月本は何冊か読んではいたけど感想書くほど食指が動かず、もしかして小説の感想を書く力って消滅した?と危惧していたのですが、杞憂でしたね。単純に好きだと思える本がなかっただけでした。
もともと小説家になりたくて、一度はまったく書けなくなって挫折して、それが数年経ってまた書けるようになったものですから夢中で書いていたら今度は書けなかった5年間大切にしてきた読書がおろそかになって。自分の好きなことってなんだろうって最近わからなくなってて。そんなときの、藤野可織『来世の記憶』でした。
結局、物語を読むのも、物語を書くのも、大好きなんだなと。考えるのが好きなんだなと。そこに気づかせてくれる、本書の途方もない「余白」がたまらなくおもしろかったです。最高の読書体験でした。大満足!