初めてのショーン・タン。名前はなんかどこかでチラッと聞いたことあるんですけど、「機会があれば読みたいよね」とエドワード・ゴーリーの絵本に興味持ったときとまったく同じ気持ちを抱いていたら本当に読む機会がめぐってきました。なのでそのうちエドワード・ゴーリーの絵本も読むんだと思います。
図鑑かと思ったよね、最初。絵本なのか掌編小説集なのかわからなくて、まぁ、それは読み終わった今でもさっぱりわからないんですけど。とにかく結果として最高におもしろかった!ので、25編すべての物語について感想・考察・アウトプット等々してみました。先にお伝えしておきますが例にもよって1万文字ぐらいあります。めちゃくちゃ超絶時間がある人だけ読んでいってください。
とある高層ビル。その87階に「ワニが住んでいる」と言われたら、私たちは信じるでしょうか。信じるわけがない。〈僕〉ももちろんそれはわかっている。
ビルの高層階にワニが住んでいると人に話しても、相手は僕が狂ったと思うか、こっちがオチを言うのをじっと待つだけだ――弁護士がいつまでたっても来なくてさ、とか何とか。
(P12/L17~19より引用)
どころか、
それでもあれこれ証拠を並べてやっとワニの実在を信じさせることに成功すると、こんどはとたんにお説教がはじまる――そんなのは自然に反する、倫理にもとる、異常だ残酷だ不気味だ間違っている、自然界に帰してやるべきだ、等々、等々。
(P12/L19~22より引用)
その先まですっかり読まれている。(本を)読んでいるのはこっちなのに。
ともかく、これは「待合室とは得てして想像力を奪う場所だ」という〈僕〉の持論から、すなわちワニをはじめとした生きものたちにとっての人間社会もまたなんの興味もない巨大な〈待合室〉に他ならない――という具合に話がまとまっていく。
待合室が想像力を奪う場所だというのは、じつは私も大いに共感できて。たとえば心療内科の待合室。20代の頃、ある評判のいいクリニックに通院していました。カウンセリングに力を入れているというそのクリニックは心療内科にしては大きく、待合室はいつもなかなかの混み具合。彼らは皆、当然といえば当然なんですけど、一様に絶望感や悲壮感のオーラをまとって座っています。そして、ここを訪れる私もまた精神的にまいっている状態。影響を受けないほうがおかしい。
その待合室でたっぷり二、三十分は待たされたのちようやく診察となり、「今週はどのように過ごされましたか?」というようなことを医師は訊きます。社会に対する不安や恐怖を、待合室で受けた絶望感や悲壮感を、私は訴えるしかなくなる。言うほど悪い1週間だっただろうか?と首をかしげるのはクリニックを出たあと。
対人恐怖症の自分には通院こそが最大のストレスだと気づき、通院はあるとき突然やめました。それから5年ほど経つけれど、私は今、すこぶる元気です。
また、これはネットで拾った小話なんですけど、産婦人科の待合室というのも窮屈だなーと思いました。曰く、産婦人科へは夫を伴って行くな。不妊治療のために訪れている女性もいるのだから。「おなかが大きな、幸せそうな女性を見るとつらい」と彼女たちは主張していましたが、幸せな人間を自分と同程度の心理環境に引きずりこんだとして、はたしてそれは彼女たちにとっての幸せなのでしょうか。同じだけつらいと感じる人間が、増えただけなのではないでしょうか。つらいと感じる人間が増えれば増えるほど、社会全体も不幸になる。それは決して「よくなる」という意味にはならないよね。
ある日のランチタイム、途方もない数の蝶が軍勢が飛んできた。
それだけ。本当に「それだけ」の話。なにせ人々はその言葉にならない喜びに身を任せ、この一時ばかりは、意味を見出すのを放棄したようなのです。
このあいだ、人との会話の流れで馬鹿についての談義になりました。私はなんにでも意味を見出して物語を生みだしたい性分なので、社会にほとほと疲れてしまって、いっそ無知であるほうが人間は幸せなのかもしれないねと言ったんです。そしたら、相手の答えはこう。
「馬鹿は馬鹿でも、好奇心を持った馬鹿にならないとだめだよ」
好奇心というのは「なんで?」と一緒くたにされがちだけれど、本当の好奇心というのはたとえば無数の蝶が飛び交う空をただじっとながめている彼らのような、この瞬間のような、そういうものをいうのだと思います。感情ではなく。観察、あるいはそうしたくなる無意識の衝動。
これを、履き違えて感情だけで動く人たちがときどきいる。これは本当の意味で無知の馬鹿者でしょう。そして、それが幸せか、なりたいかと問われれば、答えはやっぱりノーだ。
この本を買ったきっかけは表紙だったけれど、そもそも、短編小説集なんだと思っていました。ネット経由で買ったので実物を見たのはもっとあとだけれど、最初の感想は「デカい」「重たい」「絵本かと思った」。絵本というには文字量は多いし、かといって小説というには挿絵が多く、絵本なのか小説なのか、どちらというべきか判断がつかない程度にはデカくて重かった。表紙で決めたくらいだしもちろん絵も魅力的だけれど、絵が挿入される理由はわからなかった。それが突然解明したのがこの話。鳥肌たったわ。これは、絵があってはじめて成立する話。
世界はぼくらのものだ!
(P27/L5より引用)
先にワニの章で生きものにとっての〈待合室〉という概念を語っていたことも効果的に響いている。絵にもならない美しさと、言葉にならない美しさ、両者の融合による衝撃をぜひぜひ。
屋外で、本能的に、衝動的に交尾をする動物たちをワイセツだ、不浄だと言って非難する人々。
人間たちの暮らす大都会まで出てきてわざわざそれを見せつけるか、というのが彼らの意見だけれど、そもそも地球規模で見た場合どこもかしこも個人に所有権などなく。
愛は主体的なものこそ至高で、恋愛モノのフィクションも少なからず自分を投影して楽しむ人がほとんどだと思いますが、客観的な愛にも得られるものはあると思うんです。たとえばパパやママにとてもかわいがられている子供を見るのは、自己を投影したりせずとも、客観的に和みますよね。その線引きが上手くできるようになると、社会はきっと、もっと優しくなる。
私たちはあまりにたくさんの物事を「自分事」にして考えがちだ。その思考自体はもちろん悪くないけれど、何事も二極化せず、その非対称・アンバランスを美しいと思える人間でありたいなと思う。
何年にもおよぶ苦闘の末にとうとう捉えた巨大なサメ“デカ口”。彼を解体――いや、処刑する〈漁師〉と、知性などとっくに壊れたあとのような声をあげて興奮する人々。
炎上の構造とまったく同じだなと個人的には思ったり。
たとえば、古くは童話の世界でキツネやオオカミが担ってきた〈悪者〉の象徴がこのサメなのだと思います。作者のショーン・タンはオーストラリア出身だそうだけど、オーストラリアというのは、どうも世界で一番サメに襲われる被害が多い国らしい。「シャークアタック」というそうですよ。映画の世界でもいわゆるサメ映画というのはキツネやオオカミなんかよりよっぽど作品数が多いし、現代的かつ身近な〈悪者〉としてこれ以上ふさわしいモチーフもないのかもしれない。
彼を〈悪者〉として吊りあげ「知性ある言葉が壊れた後の、意味のない音」をあげて処刑を見守る群衆というのは、説明するまでもなく。考察すべきは〈漁師〉という存在でしょう。
大金を積まれても、表彰されても、物憂げで億劫そうな態度を崩さず淡々と解体をつづけた漁師。彼は私たちの世界でいうところのマスコミ、なんだと思いました。漁師が結局は群衆が去り投光器が切れたあとも解体刀をふりつづけたのは、そうすることが「仕事だから」という歪んだ使命感かあるいは責任感からだったのではないでしょうか。マスコミだってきっと同じ。それがお金になるから人を叩く。仕事だから火に油を注ぐ。断ることもできたはずなのに、それができなかった自分への当てつけとなって、次から次へと制裁の手が止まらない。
サメのはらわたをえぐると、中からまたサメがあらわれ、その中にもサメが……とまるでマトリョーシカのごとくサメは次々と出てきます。群衆がすっかり飽きてしまっても、スポットライトがすっかり消えて主役でなくなっても、「解体」というもっともらしい名前をつけた処刑が、いつまでたっても終わらない。もう、はじめてしまったことだから。
母娘にとって最愛の、“世界一の猫”の旅立ちの日――。
昔から、友達をつくるのがとてつもなく下手でした。話しかけられれば答えるけれど、それだけなので、学校を出れば基本的にはいつもひとりぼっち。
人と人との縁というのは、自分から探しにいって結ぶものだと、なぜかいつも勘違いしてしまいます。だけど思えば中学生のときよく一緒にいた友人は、最初は〈友達の友達〉でした。それがいつのまにか、最終的には引きあわせた友達よりも仲よくなって、けどそれは「彼女と誰よりも仲よくなろう」みたいな意識があってそうなったものでもなかった気がする。
名前にこだわりさえしなければ、今自分をとりまいている縁もすべて、案外「仲がいい」で説明がつけられる気がします。友達をつくるというのは思ったより難しくないのかもしれない。家族も、恋人も、インターネット上のつながりも、私にとっては等しく「仲がいい」友達だ。
二歳の〈きみ〉が、ハイウェイでギャロップする馬たちとつかのまの邂逅をする話。
日本には「走馬灯」という言葉があるのでひやひやしながら読んだけど、そういう話じゃなかった。馬という生きものは、というか、馬と人間の関係というのは随分奇妙だ。一方では神格化したりあるいは神馬として神に奉納したりとかって風習がありながら、同じだけ古くから荷運びの手段として使役して、現代ではギャンブルの相手をさせられ、あげく食べられる。
ハイウェイと並走する電線に目をやったきみはふと、あの中を走っているのは電流よりももっと暗い何かだ、あの高架橋の落とす影は影以上の何かだ、という思いに打たれるだろう。
(P81/L20~22より引用)
正誤には関係なく、こうしたわずかな歴史の残滓を感じとって想像しながら生きることの、なんとおそろしく美しいことか。
家の一番奥の部屋に閉じこめられて、ちょっとずつちょっとずつ、スライスされてまるで沈んでみえるブタ。
でも、もしかしたらブタはぼくらにはわからないやり方で悲しむのかもしれない。
(P86/L3より引用)
動物を主題にした創作物は、ペットとか家畜とか環境破壊とか、なにかしら人間と社会に罪悪感を訴えるものが多くて読むと悲しい気持ちにもなんですけど、そのとき自分がおまじないのように唱えるのは、「この悲しみも人間の創作物だ」ということ。
「コウモリであるとはどのようなことか」という思考実験があります。コウモリであるという主体的体験は私たち人間の客観的な方法論ではたどりつけない事実である、というものです。この話だって〈ぼく〉という男の子(人間)が紡いだ言葉でできている。尻尾をふってブタが喜んだのもブタ同士で語りあっているのも、酷な言いかたではありますが、彼の客観的な推測でしかないわけで。
ペットや家畜という文化は、狩猟が長い時間をかけて進化した末の産物だと私は思っている。だから論点はそこではなく、過剰な発展で不必要な数が生まれてしまっていることに絞ったほうがいいんじゃないかと思うんですけどね。
空の魚〈ムーンフィッシュ〉を釣りあげた兄弟の話。
なにもかもが対比なのかな、と。陸にないから空に海があって、釣れない魚がある日突然釣れてしまう。食べられない魚が食べられる、地下の煉獄世界の千載一遇のチャンス。卵は空へと上下逆さまに落ちていき、ムーンフィッシュが最後にくれた贈りものは、後悔。
後悔がどうして「贈りもの」なのかといえば、現実は逆さま、釣った鮭が卵を持っていたとて私たちはといえば「いくらも食べれる!やったー!」だから。貪欲だ。後悔の欠片もありゃしない。だから、逆さに降りそそぐ黄金のシャワーの中にある後悔の念に、まぶしいほどの希望を感じてしまうのでしょう。
また高速道路にサイが出た。
これ以上は全部ネタバレになるような短い話なので、アウトプットもコンパクトに。サイということで、ハンス・ロスリングの『FACTFULNESS』(上杉周作,関和美・訳)に載っているチンパンジークイズ第11問を思いだしました。
1996年には、トラとジャイアントパンダとクロサイはいずれも絶滅危惧種として指定されていました。この3つのうち、当時よりも絶滅の危機に瀕している動物はいくつでしょう?
A 2つ
B ひとつ
C ゼロ
答えはC。クロサイは以前から「絶滅寸前」で、現在も変わらないとのこと。ただし、野生のクロサイの数はゆっくりと増えているようです。
同書によれば、人間は物事をよりドラマチックに見ようとする傾向にあるようで。たとえばこのサイの話なんかは少ない言葉でこの心理を上手く突いた話なのかなぁなんて思いました。
病院の片隅、いつだってそれがそこにいる――。
フクロウといえばギリシャ神話では知恵の女神・アテナの象徴にもなっていて、「森の哲学者」なんて呼ばれてもいます。
※以下、ネタバレになりそうなので白字表記としました。任意でドラッグしてお読みください。
「生キル」でも「死ヌ」でもなくただ「治ル」ことを知っているというのは、他の物語にもちょくちょく出てくる動物たちに過去(「生キル」)と未来(「死ヌ」)なく今のこの一瞬が連続しているって著者の考えが反映されているのでしょうか。
突然カエルになってしまった重役たち。彼らを、許し助けることにした秘書の話。
もしかしたら自分だって、人を人として見ていないという点で同罪なのかもしれない。どんな人にも、人じゃなくもうカエルだけれど、もろさや、不安や、外からはわからない弱さがあるかもしれないのに。そういう愚かな決めつけが、世の中全体を悪くしてしまったというのに。
(P130/L20~24より引用)
このあたりとくにグサッときますね。話の趣旨としてはサメの項と似ているように思います。サメは狂乱の中で捌かれて(裁かれて)しまったけれど、彼女は彼らを許し、宇宙は彼らをこらしめなかった。ここが大きな違いなのかと。
同じ人間だとは到底信じられない、理解しがたい人はたしかにいる。だけど彼らを別の“なにか”だと思って手を差し伸べること。受け入れようとすること。歩みよろうとすることも、私たちにはできるはずだ。
ヒツジを敬いなさい、と必死に教える先生の話。個人的にそれなりの共感や理解があった話でもありました。
ウチには犬と猫がいて、どちらも妹や弟のようにかわいいけれど、体臭や排泄物、避けきれない獣のにおいに辟易することがある。後者に関してはにおいだけでなく視覚的にも強烈な吐き気を催すほど。思えば子供の頃に飼っていたのはハムスターや金魚など獣臭さがほとんどない生きもので、動物園にも積極的に行った記憶がまったくありません。獣のにおいに、まるで慣れないまま大人になってしまったな、と思う。これはまるで無菌室で育ったみたいな、人間として〈なにか重要な損失〉のように感じます。
「ヒツジを敬いなさい」と先生は言いました。ヒツジありがとう、ヒツジかわいい、と思っているだけでは敬っているとはいえません。感情や視覚情報だけで処理せず、これからは五感で、動物たちとむきあう機会を積極的につくっていけたら。
かつて「神童」「天才少年」ともてはやされた少年が、彼の人生で唯一、照明も実証も検証も観客も必要としない領域で見ていたのはカバの夢だった――。
ああ、天才はこうやって凡人の、感情だけのまがいものの共感に殺されていくんだなぁと。
これは日本語の言葉遊びなので作者の意図ではきっとないけれど、あらゆる存在を包みこんで広げる水に浸かったカバが本物の天才なのだとしたら、彼の夢に見向きもしなかった両親やマスコミ、その他大勢の凡人が反対にバカ者だった、と読むこともできそうです。
ハリケーンののち、水のあるところならばあちこちにあらわれた肺魚たち。彼らの顔に自分を見出した人間たちは、彼らを拾いあげ、ともに生活をはじめる。
そもそも肺魚という生きものがいること自体今初めて知ったのだけれど、それを抜きにしてもまぁ、圧倒的にこれが一番奇妙な話だったよね。結局のところ肥大した感情だけで生きていて、本能や知性をなぜか愚かなものとして見ていて、「居心地のよさ」を「自分らしさ」と勘違いしてふんぞりかえって。あああああ!この人間辞めたくなるような!厭世を、じつに美しく馬鹿にするような読み心地がたまらん!
やっぱ歴史と物理と、個人的には文学が人間の必須科目なのかなぁと思ったり。もっと勉強、それから思索と研究をしっかりやらないとなぁ。肺魚――自分たちの分身に、負けないように。
シャチを海から引きあげ、空に浮かべた私たちの、今なおつづく途方もない後悔。
私のまわりでも、結婚はゴールじゃないとか、小説家はなったあとのほうがよほど大変だとか、昔から常に誰かが言っていたものです。それはどんな物事においても言えることで、最初と最後どちらが大事かということでなく、最初を考えるならば最後を、最後を考えるならば最初を、一緒に考えておかなければならないという話ですね。私たちの人生に本当は過去も未来もないのだけれど、ある地点を「過去」または「未来」と想定して想像することは可能でしょう、と。これはそのためにこしらえた言葉でしょう、と。
私たちは常にトラの脅威にさらされている。背後からこっそり、じわじわと迫りくるトラに有効な手段、それは頭のうしろにお面をつけることです。だとしたら、あなたはその方法を実行しますか?
本当に、具体的にどこがという説明は一切できないんだけど、なぜかめちゃくちゃ「西野亮廣!」と思いました。なんでだろう。たぶん最後の一行が決め手だった気がします。
彼らはみな、人間界のルールは往々にして馬鹿げていて、互いを尊重するなどということは望めないのだから、時と場合によって自分の決めたルールに従って生きたほうがいいと気づくようになるのです。
(P164/L9~11より引用)
平日の昼間とか深夜、ほとんど車の往来のない横断歩道が赤信号だったときに、あなただったらどうするでしょう。私は律儀に青信号を待つ人間でした。だけどそれは自分がそうしたいからというよりは、今信号無視をしたらまわりの人はどう思うんだろう、という不安や恐怖が原動力だったように思います。
「それは車の往来があるときに気をつけていればいいルールであって、そうでないとき、ここにずっと立ってるのって意味のないことだって思わない?」
と、言ったのは友人でした。彼に促され、私はとうとう、車の往来などほとんどまったくない深夜の横断歩道を赤信号でわたりました。仮に、自分がその様子を目撃した側の人間だったらどう思うだろうと考えました。なんとも思いませんでした。だって車は今どこにもいないのだし。いや、そもそも他人が信号のルールを守っているかなど、普段まったく興味がないのです。それは私と他人の立場が変わっても同じこと。これを〈スポットライト効果〉といいます。
他人を尊重することと自分を尊重すること。それはどちらも等しく重要で、器用な人は両者のバランスをとること、それが難しいならまずは後者を優先することが人生を豊かにするヒントなのかなと思いました。
うれしいとき、オウムは怒ったようにくちばしをギリギリ鳴らす。怒ったとき、オウムはうれしそうにダンスをする。たっぷりの情愛をこめて僕らを血の出るほど噛み、最大級の好意のしるしに、ありがたくもゲロをプレゼントしてくれる。そんなあべこべの表現の前では、ニンゲン様中心の言葉は――”うれしい”だの“怒る”だの“愛情”だのは――風に吹き飛ぶちっぽけなモミガラにすぎない。
昔ウサギを飼っていたのですが、ウサギは愛情表現なら「ぷぅぷぅ」、不機嫌なときは「ぶぅ!」と鳴きます。どちらも鼻で鳴らす音。なんと難儀な動物かと思いました。そういえば、猫も楽しくて興奮してくるとカカカカと鳴くのがいるらしいですね。人間が動物をそばに置いておきたいと思う心理は、対人間では想定しえないあべこべのコミュニケーションを期待するからなのかもしれない。
ではこのあべこべとは動物からしか得られないのかというと、そうでもない。自分と正反対の人間とつきあうほうが上手くいくというのはつまりそういうからくりなのでしょう。たとえば私がゲームをしていて、敵が倒せなくてキレ散らかしていると、横で友人がげらげら笑っている。「いいぞ、もっとやれ!」百面相の私がおもしろいので敵を応援する。代わってと言っても聞かない。「じゃあやめよう」とおもむろにリセットすらしようとする。すると不思議なもので、私のほうは怒ってはいけない、冷静にもう一度やってみようという気になる。それで敵を倒すと、友人は残念がる。いや、なんでやねん。
子供が大人を惹きつけるのも同じ理由なのかもしれない。あべこべのコミュニケーション。それを許したり楽しんだりできる精神的な余裕を、人は「愛」と呼ぶ。たぶん。
人間を訴えたクマ。クマにも人間以上の優れた法律があり、それによれば、我々人類はこの地球であまりに多くの罪を積み重ねてきた――。
これはこのあいだ友人から聞いた話なんですけど、「穴居人の原理」といって、人間の根本的な人格は約20万年間ほとんどまったく変わってないらしいですよ。DNAも、進化論なんていいますが150万年で1%変異するペース。おまけに高い知能を謳っていながら、脳の解明もまだほとんとできていないというんだから、そんな生きものが地球の頂点って顔してもね、という話。いずれその高い知能とやらがなんらかの知識や技術をもってして動物の意思を理解できるようになってしまったら、いよいよ始末に負えない。2つ前のシャチの話でも触れたけれど、なにか物事をはじめるときにはそれを補えるだけの最後までをきちんと計画してから責任をもって実行に移さないといけませんね。
どこの空港へ降りても必ずいるあのワシと、世界のあちこちを飛びまわる〈僕〉の邂逅。
個人的にこれは結構考察が難しいなと感じたのですが……がんばって考察してみます。
最終目的地も、最初の出発点も……それどころか、自分がどれくらいのあいだ旅をつづけているのかも、何のためなのかも、自分の名前さえわからなくなっている。
(P185/L2~3より引用)
〈僕〉が狂ってしまったのかといえば、意外と、このゲシュタルト崩壊私もわかるような気がするんですよね。最初は「麦」、途中から「佐々木麦」という名前を、かれこれ6年近く使っていて。Twitterやnoteでの交流や、ありがたいことに仕事の依頼等の問い合わせも来るので、パソコンにむかっているときはたいてい本当の名前をうっかり忘れてしまうんです。結婚したり、あるいは子供が生まれて「ママ」や「お母さん」と呼ばれることに慣れてしまうと、また似たような心地を味わうのかもしれない。
幻影ではないぞ!
ともかくこのワシとは空の住人たる鳥の種族であり、ほとんどの時間を上空で過ごしている〈僕〉もまた、鳥に足をつっこみかけている精神状態なのではないか、と読みとれるわけです。他の利用客や空港職員がワシを認識していながらもまったく興味を示さないのもそれなら納得で、彼らに至ってはもうほとんど同類なのである。フライトアテンダントたちの態度など最たる例でしょう、彼ら・彼女らはそれこそほとんど毎日、たいていの時間、空を飛んでいる。
おたがいの影という底なしの巣に棲みついた、キツネの〈ぼく〉と人間の〈きみ〉の奇妙で一方的な共生関係。
私が日常や普通というものに魅力を感じるのは、なるほど、つまりこういうことなのかもしれない。私は、あなたの影に潜んでいるこの健気なキツネを見ていたいのだ。
時はいやがうえにも流れてゆき、私たちは決して変化を避けることができません。それでも日常というルーティーンが生まれ、「退屈だ」なんて感情が生まれるのは、これはもう自分の意図しないところで現状を維持しようという確固たる意志が働いているからなのです。それはたいていの場合無意識であり、この無意識というのは、こんな愛らしいいたずらっ子のキツネなのかもしれない。
彼を撃退するために立ちあがるドラマティックな物語も引力はあるけれど、どちらかというと、私は彼とどんな形であれ共生している人間たちが見たい。そういう物語を、読みたいし、書きたいなと思っています。
金融街に群がる、世界でもっとも偉大な投資銀行家・ハトの話。
彼らは会計士そっくりに金融街に群がり、スマートなグレーのチョッキきらめくカラーを着け、目を光らせ、反り身になって歩き、会釈し、さも忙しそうに投資銀行家たちの経常黒字色の靴の踵のあいだを行き来し、一分一秒をきちきちと利益に変換する。
(P195/L1~4より引用)
未だかつてハトをこんな目で見た人間はいないだろうなと思ったら笑ってしまいました。もちろんそれは他の作品にも言えることだけれど、なぜだか、この作品はとくに。
たしかに、ハトは人が集まる場所に群れるイメージです。それはおおかた人間が落とす食べものが目当てなのだろうけど、ハトがこれをついばむとき、人間は「ハトが人間のおこぼれをもらっている」と認識します。だけどたぶんハト側は違う。「人間は我々に率先して自ら食べものを与えている」ぐらいに考えている。その可能性に気づいて、瞠目する。ハトが豆鉄砲でも喰らったような顔をして。
物事はなるべくしてそうなっているから。そんな理由で、毎晩毎晩、せっせと木の面倒を見ているカタヤマ夫妻。今夜ついに大樹は開花のときを迎える――。
一花咲かせる、なんて言いかたがあるけれど、たとえば人生を一本の木に喩えて、それがなんらかの成就のタイミングで花を咲かせるものだとしたら。花の咲くところにはミツバチが集まる。ミツバチが吸った蜜はハチミツになる。そしてハチミツというのは、ミツバチが吸った花の種類によってその香りや味が繊細に異なる。それなら、私が今育てているこの樹から出来るハチミツはどんな味がするんだろう?あなたのは?
人生の熟練者を「酸いも甘いも噛みわける」ともいいますが、芳醇なハチミツが口の中を満たしてくれるのならば、甘いだけのそちらのほうがうんと素敵です。
工場勤務のあと、巨大なヤクに乗ってゆったりと家路をたどる人々。
自室で、リビングで、喫茶店で、ファミレスで、漫画喫茶で、バスで……いろんなところで本を読んできた17年でしたが、結局一番読書に集中できるのって電車の中なんですよね。平日昼間、ほとんど人が乗っていないローカル線の片隅。あまりに居心地がよくて寝てしまうこともしばしばなんですけど。
通勤電車というのはかくあるべきだと思うんです。人ひとりのスペースがきちんと確保されていて、なにより、ゆったりと走る。本を読むでもいいし、音楽を聴くでもいい、暇を持て余すぐらいがいいんです。遅刻してしまう?それは、30分早く起きれば解決すること!
要は、会社と自宅、その行き来のあいだに心をリフレッシュしてスイッチを切り換えるツールになればいいと思うんです。それが見事にできているのが作中のこのヤクであって、実際ヤクに乗って自宅へと帰っていく〈僕〉は、このヤクよりも、この世で一番美しいものを、最後には見つけます。彼と同じ光景を、願わくばたくさんの人たちが共有し、共感できますように。
お待たせしました。満を持して、我々ヒトのお話です。
なぜわたしたちはあんなに争ったのだろう。なぜあんなに残忍で、冷淡で、利己的で、孤立していて、この高い崖の上で、あんなにも孤独だったのだろう。
(P23~25より引用)
これについてはきっと人それぞれの回答があるのだろうけど、私の意見としては、言語を習得したところに大きく起因するんじゃないかと。
言語によって、いろいろなものが、暫定的にはあるけれど定義されていきました。この「暫定的」というのがミソで、つまり言語はどの言語においても未だ完成されていない。私たちの人生には、他に当てはめられる言葉がないので仕方なくその言葉を選んだという類の事象があり、感情があり、行動がありました。その主観は、ときに他者の主観と衝突します。それはまわりまわって「残忍」になり「冷淡」になり「利己的」になり「孤立」になる。
言語の消滅は他者との、あるいは動植物たちとのちぐはぐなコミュニケーションを可能にする可能性の一つになりうるでしょう。ただ、私たちが「残忍」にも「冷淡」にも「利己的」にも「孤立」にもならない可能性はもう一つあります。すなわち、言語の完成。世界にたゆたうあらゆる物事のグラデーションを、すべて言語化して共有していく道です。
共感の押しつけではない。
あくまで、相互理解でいい。
小説という言語と主観の結晶で、その道の手伝いが自分にも出来たら思うのだけれど。
以上です。
とにかく収録数が多いので特別食指に引っかかるやつだけ何本かと思っていたんですが、まさか25本全部の話を脳みそフル回転でアウトプットするとは思わなかった。2日かかって今ようやくここまできましたけど、脳みそ湯であがったような心地です。なんか心音とか血が流れる音が聞こえる。血管性耳鳴りっていうらしいです。興奮しすぎ。
というわけで、今夜は雨音の環境音でも聞きながら寝ます。おやすみ。あらゆる存在を包みこんで豊かに広げる水と、そこにぷかぷか浮かぶカバの夢が、見れたらいいな。