冒頭からいきなりゲームの話なんですが、デレステの鷺沢文香ちゃんのソロ楽曲に「銀河図書館」というものがあるんですよ。
でね、その「銀河図書館」の歌詞について考察を書いた人がいるんですけど、それがめちゃくちゃ良いわけです。
「銀河図書館」の歌詞には「四角い空」という表現があって、上記の考察記事によるとこれは本の中にある物語世界に視点を置いたときの、読者がいる外界とをつなぐ“見開きページ”を指しているのではないかと。
『額装師の祈り 奥野夏樹のデザインノート』を読んで最初に考えたのは、そんなことで。
私が額縁に入れて部屋に飾っているのは第1回日本文学検定近現代3級の合格証書くらいで、それも百均で買った安物なので、縁遠い世界へのほんの興味本位で本書を手にとったわけなのですが、思えば小説のページ、SNSの文字制限、今こうして感想を紡いでいるパソコンのディスプレイ。意外にも“額縁”は身近なものだったなと。さらに視野を広げていけば、そもそも言葉すら、概念を閉じこめるためのとんでもなく大きく目に見えない額縁だ。
額縁があるせいで表現しきれないことも、むしろ額縁があるから表現できたことも、私の人生には多くあった気がする。
ふつうなら額縁に入れることはないものも、ときおり人は額に入れたいと考える。そのときそれは、ものとしての本来の意味や用途を失い、ただ鑑賞されるだけの存在になる。額の中で時間を止め、額とひとつになったとき、眺め物思うための象徴、モニュメントになる。自分だけの心の碑、それが必要な人は少なくないだろう。
(P97/L6~9より引用)
数年前、ウサギを飼っていました。
ミニウサギで、濃い茶色をしていたので名前は「チョコ」。飼い主に似て人前ではおとなしく引きこもり体質の女の子でした。
チョコが息を引きとったとき最初に出た言葉は「ごめんね」だった。今でも、心の中でチョコに語りかけるときは「ごめんね」ばかりになってしまう。もっとああすればよかった。こうすればよかった。友人と遊んでいるとときどきかわいいウサギの動画を見せてくれるのですが、その子は飼い主に愛情をたっぷりと注がれて幸せそうに暮らしているのだと思い知るたび、「かわいいねぇ」と白々しく微笑みながら、実家を出たらもう動物を飼うことはないだろうなと考えてしまう。自分はチョコをどれだけ幸せにしてやれたのか、今でも、いつまでも問いつづけている。
その額縁を、少しだけ変えてくれたのもまたこの友人でした。チョコが息を引きとった夜、友人は、「歌をつくった」とLINEで送ってくれたんですね。歌詞はチョコの目線に立ったもので、歌の中で、彼女は私に「ありがとう」と言いました。
過去でも今でもなく、未来でもない幻の一瞬を、額の中に閉じこめるために。
(P132/L15~16より引用)
友人は私とチョコの歴史をほとんど知りません。こんなもの想像だ、気休めだ、と思うこともできました。それでも涙がとまらなかった。涙と一緒にこぼれた「ありがとう」が友人にむけたものだったのかそれともチョコにむけたものだったのかはわかりません。ただ、チョコが私と出会ったことで回避できた不幸もあったのかもしれないと、少しだけ、思うようにもなったんです。
「切り離すわけじゃないからだよ。ふさわしい場所をつくって、そこにしまうの。いつでも見られる場所に」
(P309/L14~15より引用)
結局、どんな過去であれ残された今の自分が額縁を選んで収めてやるしかないのだ。もちろん、ときにはそれを誰かに委ねることもあっていいと思う。閉じこめるものではなく自由にするための額縁の中でひとりでに創造されていく、過去でもなんでもない幻を、ながめることがあっても。
「そう。額に入れたら絵は時間を止める。そのときに、絵の意味も価値も変わる。これまでとは違うものになる」
(P325/L17~P326/L1より引用)
感想や考察も同じなのかもしれない。〈他人が書いた小説〉という額縁の中でしか紡ぐことのできない過去が、想いが、言葉が、私の中にはあるのだと思う。そうして私がつくりあげるのもまた額縁なのです。広大なインターネットの海に流すことによって、額縁はきっと、然るべき人間の手にわたるでしょう。わたったのだ、というたしかな手応えを感じることも、決して少なくありません。
あのとき自分を救ってくれた友人のように、私にもまた、額縁をつくって誰かの思考の一端を自由にしてやることができるのなら。
秘密が暴かれることも厭わずひたすら愚直に言葉を紡ぎつづけようと、強く思いました。