第一集の感想はこちら:
第二集とはいえ小説の根幹にある部分は前作から変わらないのでとくに細かな感想はないのですが、本作を読んだことで腑に落ちたところがあったのでこれは書いておこうかなと。
まず、私は三歩に滑舌をプラスして社会性・社交性をマイナスしたような結果ほぼ下位互換なので、三歩がいて世界が成立している、というさまは妙な言いかただけれどすごく安心するんですよね。あ、自分も生きていていいんだ、という気になる。
それで、前作の感想を調べると「自分のまわりには絶対いてほしくないけれど」という前置きが結構あって。もちろん思うのは自由なんですけどね。わざわざ書かなくても~……と、下位互換としてはちょっと落ちこみもしたわけです。
始めた当初、試しに仕事の愚痴をツイートしてみたら全然知らない人から「それはあなたが悪い」とリプライが来て、マジで怖かったのですぐツイートを消した。
って、ほぼほぼ過去の実体験だし。なつかしいなぁブログリ。
で、自分のうしろめたさとか、同じ読者の前置きの理由とか、そういう諸々を納得させてくれたのが今作の隣人についての話。
そして、互いが生きることを知りながら、救わず、役に立たず、放っておいている。
なるほど、きっとそこに共犯関係がある。相互依存がある。この世界に存在することを、自分一人で抱え込まなくてもいいという安心感がある。だって私のこと何も知らない他人が、生きてていいって思ってくれてるんだって、胸を張れる。
お隣さんが、生きている責任をさりげなく共有してくれている。
あ、こういうことなんだなって。
「三歩がいてくれた方がやりやすい」と言う双子の弟。「私は、三歩を恥ずかしいと思ったことなんて一度もないよ」と言った怖い先輩。自分を嫌っている人間もいると三歩は自負しているけど、基本的に、作中に登場する人物は彼女に優しい。
それは、三歩自身があらゆる状況においてのマイノリティをユニークな発想の転換でもって一生懸命、だけどとても自然に、受けいれているからに他ならないのだろうなと。受けいれるだけでいい。救わず、役に立たず、放っておく。生きている責任を、さりげなく共有する。麦本三歩、ひいては小説というのは皆総じて私たちの”隣人”の役割りを担っているんだなと。
最近は「共感度100%!」って売り文句が小説の帯によくつくけれど、別に共感なんてできなくてもいいじゃんね、というのは偶然直近で読んだ、はやせこう『庶務省総務局KISS室 政策白書』の一節。
あと、『登場人物の心情を簡潔に述べなさい』っていうやつもね。そんなこと、知らんがな。ああいう問題を出すから、小説やコミックを読んだときに『主人公に感情移入できなかった』とかって言い出すんじゃないかな。痴情のもつれで人を殺しちゃうような登場人物に感情移入できたら、たまったもんじゃないよ。
(はやせこう『庶務省総務局KISS室 政策白書』P151/L8〜12より引用)
共感できなくていい。されなくていい。それでもせめて、
「大丈夫だよ」
言って、何故だか。三歩は何故だか、ちょっとだけ泣きそうになった。悩んでる彼女が可哀想とか、そんなんじゃない。
頑張ってって、気持ちだった。全力で味方でいてあげたいって気持ち。
あらゆる物事を自然に受けとめて共有できる隣人になれたら。
私の世界は伸展する。きっとこれから、いつでも、いくらでも。
佐々木麦は、麦本三歩のことが、今日も好き。