料理は、小学生のときに覚えた。
母がパートで夕方まで帰ってこないため、偏食の私が給食を残しておなかを空かせて帰ると、自分でなにかつくらなくてはならない。フライパンでハーフベーコンを4枚焼き、食パンに#の形にのせたらとろけるチーズも上にのせ、電子レンジで1分ほど。トースターでカリカリに焼くよりもこのふにゃふにゃ感が好きだった。名前はない。この名無しの創作料理を帰宅後はいつも一人で食べていた。
思えば、あのときから料理はあたりまえのように「簡単」を前提にしている節が私にはある。わざわざレシピサイトなんて開くくせに、検索窓には「バレンタインチョコ 簡単」「お弁当 おかず 簡単」。自分に与える食事が適当なぶん、誰かにつくる料理は手づくりでなければいけないという強迫観念めいたこだわりがあるからたちが悪い。
「どうしてだろう、やる気が出ないの。材料に『みりん』って書いてあるだけで、げんなり。みりんってスーパーに行くたび買おう買おうと思うんだけど、結局は先送りしちゃう。重いし」
(P35/L5~7より引用)
佐々木愛の『料理なんて愛なんて』は、叫びだと思った。
最初は、無邪気に料理という表層的なテーマをおもしろがっていたはずなのに、気がつくと共鳴する対象は優花から坂間へ、料理嫌いから人間嫌いへとシフトしていく。百合子と一緒になって「あんなやつ」と思っていた真島の言葉でさえラインマーカーは拾っている。好きになりたい。誰もが切実に叫んでいた。まるで、鍋にぶちこんだ野菜や肉の断末魔が幻聴になって聞こえるように。
玉ねぎを、一枚また一枚とむいていくように物語と私とはやがて本質へと迫っていく。とっかえひっかえすり替えられた焦点は最後ふたたび優花の切実な「好きになりたい」に結びついて、爆ぜる。
「それで……、話は戻りますけど、だから、料理が得意な人って、ひとつひとつ正しいものを選ぼうとする姿勢が、もともと備わっている人に俺には見えるんですよね」
(P98/L10~11より引用)
思えば、幼稚園に通いだした時分にはすでに人嫌いだった。毎朝母親から引きはがされて幼稚園バスに乗せられるたびわあわあ泣いていたのは今でもはっきりと覚えている。小学一年生のときは入学早々クラスメイトたちの前で自己紹介という段で物言わぬ無数の視線がおそろしくて泣いた。六年間、人前に出てきてなにかを発表するというのはまったくできなくなった。「なんで発表のときだけ泣くの?」無神経に訊く男の子がいれば「ずる」と陰でささやく女の子がいた。嫌いという気持ちは恐怖がくっついて大きくなった。
中学生になってようやく、皆があたりまえにできることができないことは異常なのだと自覚する。英語塾で、準2級も受けてみるといいと言われ馬鹿正直にたった一人だけ居残りで英検準2級の勉強をする私。3級に留まったまわりの視線にも気づかないふりをして。部活は上達すればするほど仲間に疎まれた。部内で上手くたって、大会に出れば、私たちは一括りに等しく圏外だったはずなのに。足並みをそろえられない私は人前でなくとも異常だった。一対一でコミュニケーションをとることすらいつも上手くいかなかった。嫌いという気持ちに罪悪感もくっついて一層大きくなった。
高校生になって社会不安障害という言葉を知る。心療内科を受診して鬱と診断されてもなにも変わらなかった。そもそも、医者という存在が他人だ。週に一度絶対に他人と顔を突きあわせて自分の言葉を発しなければならないのは苦痛以外のなにものでもなかった。人が、社会がこわいという理由でさまざまな希望を捨てて転がりこんだ大学も鬱が原因で恋人と別れただけであっさり行けなくなった。中退。社会人として当然の義務だ生きるために必要なことだと強迫観念で就いたアルバイトやパートタイムはいつでも責任という言葉がまとわりついてつづかなかった。奇跡的に理解者を得てなお、歳を重ねれば重ねるほどに人が社会がおそろしく、自分が疎ましく、身内にはうしろめたくなる人生。
人間としてあたりまえの労働とコミュニケーションが満足にできない自分はきっとまわりから馬鹿にされる。だから私は人が嫌い。人が群れなす社会がこわい。なのにどうして、どうして私は、こんなにも誰かに受けいれてほしいと思ってしまうんだろう。
料理が好きじゃない。好きじゃないけど、好きになりたい。優花の叫びは私の叫びだった。人が、社会が好きじゃない。好きじゃないけど、好きになりたい。私の中にある決定的な欠落を、差異を、違和を、好きになりたい。人としてそれが正しいからとか、違う、そういうことじゃなくて。
わたしはまたきっと、料理本をたくさん買ってしまう。もっと別の名前を探すために。
(P270/L6より引用)
料理は愛情じゃないと優花は言った。私の致命的な欠陥にも、きっと、なにか別の名前をつけられるはずだ。大嫌いな人々と、彼らが群れなすこの社会で、私はこれからもそれを探していく。愛おしいこの小説とともに。