ついにはあからさまに人目を避けるようになり、二週間ほど前から、敷地のはずれにあるコテージに閉じこもっているという。

 

(P12/L7~8より引用)

 

ごきげんよう。ついにもなにも、常日頃人目を避けて部屋に閉じこもっている佐々木ン麦シアです。

 

というわけで、石川宗生『ホテル・アルカディア』を読んで思ったこと、感じたこと、考えたことなどプルデンシアになったつもりであれこれ記してみました。

 

あらすじには長編小説とありますが、ひとまずは掌編小説集(ほとんど初出は「石川宗生ショートショート」なので短編ではなくあえて掌編)と見なし、長編小説としての全体的な感想あるいは考察は最後にしようと思います。しれっとネタバレしているところもたぶんあります。まずは21編分のアウトプットの洪水に震えろ。

 


タイピスト〈I〉

あるとき〈わたし〉はまっぷたつに割れた家に住む一家の娘となり、興味深げに覗いてくる近隣住民をもてあそぼうと、男を連れ込んだりすがたをくらましたりしてみせた。

 

(P29/L1より引用)

 

しれっと『半分世界』の表題作が出てきて思わずにんまり。となると〈I〉は石川宗生(Ishikawa Muneo)のIかな?

 

クリエイターとコンテンツは別物というのは私も再三言っていることなので〈I〉本人が好きなのではなく〈I〉の創作物が好きだというのはよくわかるよ。腐女子は「壁になりたい」ってよく言うけど、自分としてではなくあくまでその創作空間の一部として溶けこみたいんだよね。

 

ネットで小説を書いていると、信頼で成り立ってしまうなぁと感じることはままある。結局、承認欲求を満たしてくれるリアクターが重宝されて、なにを書こうがお礼感覚でリアクション返されて、そんな総数で記事は評価される。それって正しい評価なのかな。私は、なんの話をしているのかな?

 

そういえば、森晶麿『黒猫と歩む白日のラビリンス』の中で黒猫が「書物はあらゆる既存の価値観を越境する〈他者〉として書かれる必要がある」って言ってたな。どことなくそれを彷彿とさせるラストシーンだった。

 


代理戦争

申し訳ないけどめちゃくちゃ笑ってしまった。キスは細菌のやりとりだっていうし、ある意味これ「はたらく細胞」の擬人化みたいなもんだよな。擬動物化。いや、あれがすでに擬人化なんだけど。なんだこの鳥獣戯画の丁巻逆にしたみたいな言いまわし。

 

人間だって突きつめれば生存本能のために性交渉をしているわけで、それをサバンナで喩えるところに石川宗生のセンスと狂気を感じますね。弱肉強食。〈ぼく〉産の小人が制圧しているところをみると、結局エレナが収まるところは最終的に〈ぼく〉のところなのかなと。子供デキちゃった、なんて。

 

こうやって自分を小さな地球に見立てたとき最後は人間による環境汚染で死んだりするのかなって心配になったけど、よくよく考えたらそれ普通に病死だった。人間は地球のガン細胞ってネットの誰かが言ってたけどなるほどなーって思った。

 


すべてはダニエラとファックするために

タイトルが、内容があまりに直球すぎる。でも詩人のくだりはなるほどと思ってしまいました、不覚にも。突きつめていくと世界そのものが愛の対象なのか。そりゃそうだよな。

 

愛は恋とは違うから、本人がその気になればいつでもどこにでも見出すことができるのが愛のいいところではあるよね。前に中田敦彦のYoutube大学で自己肯定感についての動画観たんだけど、とくにリフレーミングとかパーソナルスペースに好きなものを置くとか好きな人たちと話すとかっていうのは世界を自分にとって居心地のいい環境に整えるってニュアンスの対処で、それもまた世界の愛しかたの1つですよね。

 

というか、ちょいちょいさりげなく「口のなかに入れてしまった」とか「ぶちんと切れてしまった」とか書いてるけどこいつらそもそも人間なの……?

 

個々の短編が濃いせいで忘れてたけど、プルデンシアは今これを部屋の外から声のみで聞いている状態。これは本を読む行為も同じで、言語だけで言語外にあるものを想像して補わなきゃいけないところに可能性があるから物語というのはおもしろい。

 


愛のテスト

「それでもあなたは、本当にわたしを愛してくれる?」

 

(P58/L7~8より引用)

 

これ、結構詰んでる質問だよなぁ。

 

ここでイエスと答えてもシリアルキラーとしてはもちろん愛する人間の最期の旋律は聴きたいだろうし、ノーと答えれば(仮に彼女の話が一部本当だったら)口封じに殺されることになるだろうし。

 

だとしたら愛のテストっていうのはそもそもの論点が違うのかもしれない。「あなたのことは殺すけど、それでも私を愛してくれる?」だとしたら、これが成立する愛ってあるのかな。殺したいほど愛してる人はいるかもしれないけど、殺されたいほど愛してる人って、いるんだろうか。

 

そう考えると、やっぱり愛は一方的に与えるものなんだよな。勝手なんだよな。わがままなんだよな。世間が思うほど、特別でもきれいなものでもないんだよな。

 


本の挿絵

 

ある夜、本の挿絵がやってきた。

 

(P59/L1より引用)

 

???

 

挿絵というのはつまり、活字世界においては視野を広げるための装置なんですよね。とすると、本の挿絵が夜の森で狩りを教えてくれたのは、たしかに〈わたし〉の視野を広げたことにはなるのかな。

 

これ私たちの脳内世界にもいえて、最初邪魔だと思ってたインプットが熟成されて後々すごく有意義なアウトプットになったりするんですよね、実際。この“熟成期間”を上手いこと表現した話でもあるなって個人的には思いました。哲学を意味する「philosophia」にはもともと愛を知るって意味があって、曰く〈わたし〉は勉強ばかりだったそうだから、つまり知を愛する話だったと解釈することもできるんじゃないかなとも。

 

森を駆けるラストシーンなんかはいい例で、その五感情報を知識として知っているのと経験として知っているのはきっと明確に違うし、その点で本の挿絵はいい仕事したよね。そもそも挿絵は視覚情報にすることで読者がそこに自分を置くことができてそこで知識を体験に変換しているともいえるわけで。

 


アンジェリカの園

端的にいえば、アンジェリカは俗物に堕ちてしまったというお話。

 

本来誰でもなかったアンジェリカにグエディン氏の娘が投影されることで、アンジェリカはアンジェリカでなくなる。いや、あるいは「アンジェリカ」になってしまう。これは凡人に愛されたい天才に愛されたい秀才、っていう北野唯我『天才を殺す凡人』の構図として考えてもいいかも。

 

コーヒーの褐色が薄まり、広がり、外に染みだしコスモスが褐色に染まる……というラストシーンが印象的だったのでちょっと花言葉を調べてみました。チョコレートコスモスの花言葉は「恋の終わり」。なるほど。枯れる。散る。一度ならぬ二度までも失った恋を空に映して、グエディン氏はなにを想うか。

 


測りたがり

本の中の世界を比喩した話なんじゃないかなと思いました。本を読んで読者が想像するものを、彼の縮尺できちんと測ってる、というのかな。だから世界最長のものは紙。紙の上に文章が綴られて世界が成り立っているから。

 

その紙がなぜ2.85mなのかはわかりませんが、強いて言えば、この本の厚さがだいたいそのくらいなんですよね。cm換算だけど。9.8cmはなんだろう。読破までにかかる時間をおおむね10時間ととらえてもいいけど、長すぎ?

 

どうして別々の単位が同じ長さで統一されてしまうのかといえば、小説があらゆるものをすべて同じ「文字」に統一してしまうからです。
最後は官能的ですらありおそろしかった。

 


転校生・女神

ペルソナ5をプレイしていると必然、モルガナが魔女だってのはもちろんピンとくるよね。魔術師コミュだったし。そうなるとタイトルはやっぱり「女神転生」と空目するよね。普通に。というかよくよく考えたら章題まで「性のアトラス」。どこまで確信犯なんだろう。……ということしか考えられませんでした。

 


わた師

技師たちはみんな、ときに自分の才能に、ときにその才能を賞賛する世間に操られている存在なのだと思った。ともすれば「わた師」もまた自分の本能的欲求に操られている一人ということになる。もちろん、「わた師」は「わたし」の物真似をする存在であって、「わたし」とはこの奇妙なフィクションの世界に投下された私たちの化身である。

 

羽海野チカ『ハチミツとクローバー』にて、突発的に自分探しの旅へと出た竹本くんに対して森田さんはたしか「自分は自分なのに?」というようなことを言ったと思う。そうなのだ。現代社会では誰もが名乗る肩書きを求めているように感じられるが、そもそも、誰もが根幹に存在という肩書きをまず持っている。それに気づけない、あるいはそれを認められない人々は”自分探し”をはじめる。これの厄介なところはどこでなにを見つけたとして、本人がそれを許すことができなければ、旅は終わらないというところだろう。自分は自分なのに。

 

ところで、最近は「専門という字は点ナシ口ナシ」という旨の小説を書いた。専門家というのは特別に突出したところがあるぶん欠陥があたりまえなのだ、と助手は博士に微笑む。欠陥を埋めてはじめて自分なのか、欠陥こそに自分がいるのか、完璧主義でかつ二極論の現代人には判断が難しい。

 


ゾンビのすすめ

多数派が正義。少数派は自分と異なる存在なので淘汰して良し。ご立派な長いものに巻かれろ精神はたしかに思考停止したゾンビといって過言ではないのかもしれない。そして、私以外の人間がその多数派なのか少数派なのか、それは思考に基づいた判断なのか、彼・彼女自身ではない私には区別のしようがない……という状態はまさしく哲学的ゾンビである。

 

朝里樹『世界現代怪異事典』「ゾンビ」の項によれば、ゾンビとはもともとブードゥー教における魔術的な力を指す言葉で、曰く、フグ毒を使った調合薬で神経を損傷させ生きた屍のような状態にして無抵抗の奴隷にしたのだという。なるほど。現代人、こと日本の現代人は反論の余地もないほどにゾンビだ。

 

ゾンビもドラキュラも、噛むことで仲間を増やしていく。自分と異なる存在を攻撃して強制的に派閥に取りこむ。このあたりの設定がじつに生きものとしての本能らしく、「性のアトラス」に収録されてしかるべき話だなと思ったり。

 


No.121393

・ストーン女史は彫刻家であるムーア氏のXという作品を敬愛している。
・ところが、先日この作品はムーア氏のものでないことがわかった。
・Xとは風と雨によって形づくられた石であり、ムーアは石に手を加えようとして結局これ以上良いものはできないと判断したのだ。
・美術館はこれをムーアが彫ったものに違いないと勘違いして展示していた。
・ストーンはただちにXを展示から外した。
・しかし、事実が判明したとて石は石のまま変わらないし、彼女が魅かれた要素も損なわれていない。
・石の来歴でなぜ評価まで変わってしまうのか?

 

――という思考実験を思いだした。

 

自然が芸術家だとしたら、人間はその一部だし、当然作品の一部でもあるわけだよね。インテリジェント・デザイン説という主張もあるし、たとえば趣味で石や植物を集めている人がいて、彼らを肯定するならある日「あなたも自然の作品の一部です蒐集させてください」と言われたらそれだけ否定するのは違うのでは?

 

ということは、自分という個、アイデンティティーを守りたいなら自分の意思でなにか自然の流れに抗わなきゃいけないって理屈になるのかな。

 

前に読んだ心理学系の本に、老いは自覚して認めてしまった瞬間にはじまるみたいなことが書いてあったんですよね。つまりプラシーボ効果的な、「もう若くない」と思わなければ身体的にも若さは維持されるという。そういうことなのかなと。自然というアーティストの作品になりたくないのなら、自分の意思で老いとかあらゆる自然の摂理に抗って、求めつづけて、勝ちとらないといけないんだなと。

 

ところで、「No.121393」という題名はジャクソン・ポロックの抽象絵画《One Number 31,1950》を彷彿とさせます。あれも無意識に委ねたとみせかけて高度にコントロールされた作品だというし、自然に抗えという考察はあながち間違いじゃないのかもしれない。

 


光り輝く人

死んだ人間はもう、根本的に生者とは別の存在になってしまうんだよな。

 

なんかファクションって死んだ◯◯のぶんまで〜とか簡単に口にして美談にしてしまうけど、仮に死後の世界があるんだとしたら死者は死者でせめて幸福であってほしいし、だったら歯を喰いしばって決別して、なるべく生前の世界を想起させないほうがきっといいんだよな。そういう未練や後悔が死者を幽霊に仕立てあげてしまうわけだし。もちろん、引き止めたい気持ちはわかる。でもあなたが死んだあともあなただけを思って〜みたいな美談ってかえって死者にできることはないのだからなおさらつらいんじゃないか?

 

昔、親戚の葬式に出たときに葬式って結局どこまでも遺された人の気持ちの整理のためにやるものでしかないよなーって考えてたのを思いだした。きっとたくさん悲しいし、泣くだろうけど、それでも最後は笑って見送れるような信頼を人とは築いていきたいものですね。

 


饗宴

ラストシーンで訪れる珍客は、冷静に考えたらハトとか白い羽をしたなんらかの鳥なんだけど、天使だとしたら幻想的だなとも思いました。天使は人間の信仰があってはじめて存在できるのだから、選択とその先にある受動的な生というテーマにも合っているしね。

 

あいつがハンドルを握っていたとき、交差点で赤信号を待っていたときのことだ。歩行者を眺めながら突然、『わたしは彼らの恩人ね』と言ってきたんだよ。『は』って訊き返したら、あいつはこう続けたんだ。『その気になったらアクセルを踏んで彼らを轢き殺すこともできるじゃない。だから命の恩人なのよ』

 

(P180/L10~14より引用)

 

今動物園で暮らしている動物たちやあるいはペットとして飼われている動物たちは、人間の存在によってどんどん過酷になっていく自然環境の中でそれでも人間の庇護があったからここまで種を存続できたわけで。今さら野生に返しましょうと言ってもそれはそれで動物たちにとって過酷だし、とくにペットは遺伝子レベルで強制的に人間の庇護なしには生きられないようにされているんだからかえって無責任だと思うのむしろ。でもそうした過去の人間の所業を、償うことはできたとしても、改変することはできないよねタイムマシンでも開発しないかぎり。

 

だとしたら、今自分たちにできるのは選択をつづけることで、選択肢を最新で最善のものにしつづけることだけだと私は思うんだけどね。

 


恥辱

たった8ページでしっかり人間を辞めたくなるので、個人的には好きな話です。まぁ人間も生物であって生きるためには食わなければならないからこればっかりは一概に人間が悪ともいえないけども、悪意を持って不必要に命を奪うことがあってはいけない、命を奪うかわり奪われることがあっても自然を恨んだりしちゃだめだってところはせめて生きものとして最低限持っていたいなと思いました。

 


一〇〇万の騎士

誰にだって産んだ母がいて、愛があって、悲しみがあって。それが正当な理由なると錯覚して。生と死はまわるもの、まぁ、つまり歴史はくりかえすという話なのかな。

 

人間であることを辞めたくなることもあるけれど、死を迎えるまでのこの生は誰か・なにかの死で成り立っていて、せめてその事実を活かしきってからまっとうしなければならなくて。とか考えているあいだにまたあたりまえのように誰かのなにかを奪って生きているんだから、結局まっとうするタイミングっていうのは、基本的には強制的な生命活動の終了まで終わらない。要は、生きなければ、ということですね。

 

なにを言ってるんだ?

 


激流

順当に考えれば投資家の夫婦がなにかした……しかも「唆した」のだと思うけど、そこから見えてくるのは結局、時代や政治、社会の激流は他所の賢い金持ちからもたらされるっていう現実世界の縮図でした。

 

踊らされるのは小金持ち。割りを喰うのは下流層。だからこそ国としての力を強くするために政治家たちは躍起なんだけど、そうなればなるほど個の生活でカツカツの一般市民は反発する。

 

ここの格差や対立を大きくしないために教育が必要不可欠だけど、残念ながら生活に必要な知識は学校のカリキュラムに入っていないから日本は生きるのが難しいよなぁ。

 


A#

必要悪みたいなね。人間は異人や異物を見かけたら自分とそれを区別するための言葉や概念をつくるし、もちろん自分を正当化したいから必然的にもう一方は悪になる。そうやって無意識に適応して防衛する人間の生理反応ってすごいなとさえ思う。途中承認欲求と結びついて最終的には金銭にいきつくという資本主義に支配されっぷりもね。まぁ、こういうメカニズムがあるからコンプレックスが芸になって成功するって例もあるんだけど、本人らはそれで本当に救われているのでしょうか。

 

ところで、読後とある音楽経験者に「A#についてなにか知っていることがあればどうぞ!」とLINEを投げたところ「音階的にはB♭と同じ」「A#よりはB♭のほうが馴染みがある」と回答をいただきました。なるほど、だから死生のアトラス冒頭の会話劇に出てきたクラリネット「B♭」だったんだ。後者の意見を鑑みるにやっぱA#には潜在的に異質なイメージがあるのかな。

 


糸学

けれど、マイは今でもひとりになったとき、指先から伸びる色とりどりの糸を眺めながらふと思ってしまうのだった。人はみずから運命の糸のほうに寄っていくのではないか、〈糸学〉はその選択を正当化するためにあるのではないか。

 

(P253/L12~14より引用)

 

当たる当たらないは別としてもともと占いは好きだったけど、大人になって確証バイアスという言葉を知ってからはこれ私も本当に思う。いわゆる引き寄せの法則もこういうことなんだろうな。まぁ、科学的に説明できるとしてもおもしろい事象ではあるよね。

 

占いといえば、私の本名の字面は組みあわせがすべて総画数27になる珍しいパターンらしいんですけど、中学生のときに読んだ姓名判断の本にこれは何年に一人の天才って書いてあって「27歳で才能が開花する」という言葉にじわじわ縛られた人生でした。あと何年、あと何年までになんらかの才能を開花させて成功しなきゃって。

 

あのときの妄信とそれに伴う焦燥感を思いだすと、運命そのものはあってかまわないけど、わからないほうが人生楽しいんじゃないかなと思います。

 


チママンダの街

 

収拾がつかないので、みんな好きにしたらいいだろうということで落ち着いた。

 

(P273/L15より引用)

 

これに尽きる。

 

都市にはそれぞれの歴史があって文化があって、暮らしがあって、施設があるから好きに生きたらいいよ、と。それが実際、比較的楽に実行できるからチママンダ塔はいいよね。

 

けど、階段ってところがミソなのかな。不確定な上(未来)に昇れば登るほど、過去という判断材料が増えていって、恋しくなる。恋しくなる頃には後戻りが難しいところにいる。難しいから重い腰がなかなか上がらない。妥協しようとして暮らしが生まれる。施設ができる。文化が築かれ歴史が築かれ都市になる。まわる、まわる。まわるといっても螺旋状にだ。ただまわっているようで、すべての円は同じではなく、上へ、下へ。

 


機械仕掛けのエウリピデス

 

興味深かった。シナリオとは思想であり、つまりどんな偉人の思想も現代まで脈々と受け継がれ肯定・推奨されればシナリオにすぎないってことかな。

 

これはジャンプ漫画の流行りのサイクルにも似てるなと思った。ジャンプ漫画の流行りっていうのは、努力型の主人公と才能型の主人公とか、正義の勢力を描いた王道とそのアンチテーゼとか、対極にある主題が定期的にまわってるらしい。で、これは漫画家の戦略ではなく彼らをまとめている編集部に思惑があるのであって。

 

流行りを覆すのは個人の力ではどうにもならないかもしれないけど、流行りに乗らないっていう選択はできるよな、と。

 


時の暴君

これまでの物語にもいくつか触れられているから、名前を変えてラジャイオは共通する一人のキャラクターなのかな?ていうか、ラジャイオは7人の芸術家のうちの1人なのでここで言及された作品はラジャイオ作であると考察することもできるわけか。ふぅむ。

 

「やはり、時を司るのはこのわたくしめであります。ぜんまいの神通力は時の流れにも及ぶものでありまして、たとえば、常ならぬ勢いで巻き上げれば時を早送りすることもできるのです。どれ、じっさいにご覧にいれましょう」

 

(P310/L15~17より引用)

 

話を「時の暴君」に戻すと、ぜんまい係が時を司るというのならこの本に収まっている時を司れるのは読者なのかなと。高速でページをめくれば物語も高速で進むことになるし、最後の言葉はそれをあらわしているのかなと思いました。

 

あ、でもこの短編ちょうど次が「世界のアトラス」になっていて、冒頭ミアの言葉は「かつての〈アルカディア〉は」からはじまる。つまり作中に流れる時を読者としてページをめくらせればぜんまい係が時を早送りしたという事実にも矛盾がなくなるのか!あっ、すごい、そこまで計算してこの短編そして「世界のアトラス」の配置だとしたら感動だわ。

 

王が1000の部屋からなるハーレムの迷宮に消えた、というくだりはミノタウロスの神話っぽいし(ラジャイオがミノタウロスの位置づけだとしたら迷宮で暴君ぶりを発露するというのは納得)、時間にふりまわされる王と人々の姿はなんとなくミヒャイル・エンデの『モモ』を彷彿とさせる雰囲気だよね。

 


 

で、結局プルデンシアってどうなったのって話なんですが、各芸術家の版を読んで印象に残った言葉や場面をつなぎあわせた結果〈朗読の最中になんらかの理由で火災が起きてプルデンシアが死亡。と同時に、彼女のための朗読を拠り所にしていた芸術家たちの心の根幹にある“なにか”も各々の抽象世界の中で死んだ。シュレディンガーの猫よろしく、閉ざされたコテージに今なおいるかもしれないプルデンシアのための朗読は脈々と受け継がれてゆき、やがて、重要なのはプルデンシアの生死ではなくプルデンシアという概念だという風潮に変化していく――〉みたいなことかなと、ひとまず結論づけることにしました。

 

技術的な話をすると、私も趣味でこういう既存の短編をあとで新規の物語に組みこんでオムニバスにする短編小説集みたいな長編小説をつくったことがあるのですが、これ、簡単なようで実際は新規の部分かなり難しいんですよ。別の物語につづくと想定されていない作品から要素を抽出して、かつそれぞれを矛盾なくつなげないといけないので。そのうえで、今「時の暴君」の項をまとめていて気がついたんですけど愛のアトラスは作品収録数6、性のアトラスが5、死生のアトラスで4……ってちゃんと一人また一人と芸術家が去り一遍また一遍と物語が減っていく過程をあらわしてるんですね、これ。さらなるギミックを仕掛けて凝ってる場合かと。こんなに一遍一遍癖の強い短編で。作者の脳味噌どうなってるんだろうなと思いました。まる。

 

オムニバスとは言いましたが、ラストシーンを含めかなり読者に委ねられた作品だと思うので個々のつながりはあまり意識せず単純に短編集として楽しんでも全然おもしろいと思います。

 

アウトプットや考察がはかどっておもしろかった。

 

でも疲れた。

 

Ranking
Writer
佐々木 麦 Sasaki Mugi
小説を書いたり、読んだ小説についてあれこれ考察をするのが趣味です。雑食のつもりですが、ユニークな設定やしっかりとテーマがある小説に惹かれがち。小説の他に哲学、心理学、美術、異形や神話などの学術本も読みます。