!ネタバレ注意!
本記事は一條次郎『ざんねんなスパイ』に関する考察記事です。作品の重要な部分または結末について触れていますので、作品を既読である、またはネタバレを承諾する場合のみ閲覧することを推奨します。また、記載される内容はあくまで筆者個人の意見です。 |
テーマから考えるということはしないので、段々そうなったというか、テーマみたいなものは後からついてきた感じです。
作者の一條さん自身が巻末の対談にてこのように発言しているので、考察なんてするだけ野暮という気もするのですが、なにぶんこちらもなにもないところからインプットしてしまう性分なので。読んでいるときにいろいろメモしたことをつなげて考察してみました。『ざんねんなスパイ』読んだけどなにがなんだか全然わからなかった!けどこのまま「ざんねんな小説」にしてしまいたくない!!と思っておられる方がもしいましたら、参考にしていただければ幸いです。
殺されたイエス・キリスト
あらすじでも三言目には説明される、ペーパーナイフで殺されたイエス・キリスト。まずこれで連想するのは哲学者・ニーチェの「神は死んだ」でしょう。
あいにく自分は大学時代日本文学専攻だったのでここでは簡単にウィキペディアから引用させてもらいますが、
ニーチェによれば、神・霊・魂といった虚構によって、栄養・健康・住居といった人生の重大事が軽んじられてきた。神が死んだ(そして神を冒涜することも出来なくなった)からには、最大の問題は地上やからだを冒涜することである。
すなわち、「神は死んだ」とは神聖を脱していかに生きるべきかの自由を説いた言葉である、と。そしてそれはスパイという宿命ではなく、アラスカの幻想を捨て、最後にこの町で友人たちとともに生きていくことを自ら選んだ主人公・ルーキーに重なります。
作中(P46)、マダム・ステルスがバイオミティックスについてこう述べていますね。空を飛ぶなら鳥、泳ぐなら魚、地中を掘りすすむならモグラ――それぞれ得意とする生物をそっくり模倣するのが手っ取り早いの。
模倣は誰でもいつからでもできる。大切なのは、上辺ではなくその本質を模倣すること。たったそれだけで人生は最適化されていく。
「密造酒に手を出すよりはましさ。とくにあぶないのは〈フライングスノーマン〉だ。あの酒はだめだ。ひとくち飲んだらとまらない。翌日には雪の上で大の字になって死体で発見される。腕を上下にばたつかせ、天使の羽みたいな跡をつけてな。空を飛ぶ幻覚を見るらしい。冬になるとそれで何人も死んだもんさ。ラ・パローマがあんなふうに悪用されるなんておもってもみなかったよ……」
(P62/L8~12より引用)
余談ですが、イエス・キリストの死がニーチェ哲学を暗示しているのだとしたら、「からだ」からのつながりでこの光景はレオナルド・ダ・ヴィンチによる『ウィトルウィウス的人体図』を想像してしまいます。「虚構(幻覚)によって、栄養・健康・住居といった人生の重大事が軽んじられてきた」という先の引用にも見事に符合しますしね。
キョリス(巨大なリス)
以前『レプリカたちの夜』で〈なぜシロクマだったのか〉について考察した手前、当然、本作でもリスに注目せざるをえません。
リスの生態や象徴の歴史を調べていて偶然仕入れた知識ですが、古代ローマの博物学者・プリニウス曰く、リスには嵐がくるのを予知する能力があるそうです。嵐の前、風上に巣穴がある場合は前もってふさぎ、風下に新たな入口をつくりなおすのだとか。
実際、森でキョリスとの邂逅を果たしたあとルーキーは市長と対面し、次々と不条理な“うっかり”の嵐に襲われるはめに。
「あー、はい。そうです。いまのはアラスカンジョークというやつです。ほんとうをいうと、ここがとてもいい街だときいたもので」
(P39/L11~12より引用)
キョリスについてチェロキーは「おなじ種類の動物なら北へ行くほど大きくなる」というベルクマンの法則と「寒い地域に行くほど体つきがまるっこくなる」というアレンの法則を用いてその信ぴょう性を説明しました(P73)。
これをジョークに当てはめると、現実世界の日本にいる私たちから見たアラスカとは結構な北であり、イコール、アラスカンジョークである『ざんねんなスパイ』とは相当に大きな冗談であるということ。大真面目に読んで考察なんかしてないで肩の力を抜いて笑ってね、という作者からのメッセージかもしれませんね。アイヤー。
ざんねんなスパイ
最後にタイトルについてですが、『残念なスパイ』ではなく、『ざんねんなスパイ』です。
こちらは先にも登場したアレンの法則でもって考えてみます。寒い地域に行くほど動物の体つきは丸っこくなる。丸っこい。そう、ひらがなもまた全体的に丸っこくやわらかな印象を与える文字なのです。さらにいえば、ひらがなだけでなくカタカナ、漢字、ローマ字など扱う文字が多くその使いかたにも独特のルールが存在するのが日本語のおもしろいところ。
「ざんねん」はもちろん「残念」であっていいし、あるいは読者がそれぞれに考える“ざんねん”の文字あるいは定義であってもいい、というのがこのタイトルの狙いだったのではないかと私はにらんでいます。巻末の対談を読むに「わたしたち」と「かれら」という区別、差別や分断がどこから来るのか、というのが最終的にはテーマになっているようですから。
以上、一條次郎『ざんねんなスパイ』を読みながらメモしたこと、その考察でした。
私は小説にテーマを求めるタイプなので伊坂さんほど内容は楽しめなかったけれど、まぁ、よくよく考察してみると第2の人生は年齢に関係なく物事の新しい価値観が生まれた瞬間からはじまるのだなと思わせてくれる、なんだかんだテーマ性のある小説だったんじゃないでしょうか。結果的にはね。
これだけ”うっかり”ひっちゃかめっちゃかにしてしまっても最後は結局なるようになる。それがこの世界で人間だと思うと、明日もなんとか生きていけそうです。