ジーン・ハンフ・コレリッツ『盗作小説』(鈴木恵・訳)を読む。
かつてのベストセラー作家ジェイコブは、どうしても新作を書けずにいた。小説創作講座で教えるだけの日々に鬱々とし、受講生のエヴァンに怒りと嫉妬の炎を燃やしていた。授業を受ける意義がないとうそぶきながらも、彼の語る小説のプロットは素晴らしいものだったからだ。その三年後、ふとしたことからジェイコブはエヴァンが死んだことを知る。彼は、エヴァンが自分に語ったプロットを盗用して小説を書くことを決意する。かくして、新作『クリブ』はベストセラーとなるが、そこに何者かから脅迫メールが届き……。 |
江上隆夫は『降りてくる思考法』の中で、他人のアイデアやクリエイディブを真似ても盗んだと非難されず逆に喝采を浴びる場合について、
先人のつくり上げたものを、敬意を持って学び、その方法やエッセンスを真似しながらも、そこに自分なりのアイデアを加えて、新しいものとして生み出すときに現れる現象です。これが「オマージュとして盗む」です。オマージュはフランス語で「hommage」と綴り、①尊敬の気持ちを表したもの、敬意②ほめたたえるもの、賛辞、献辞、を意味します。
江上隆夫『降りてくる思考法』より
としている。「盗む」技は他にも、①素材の魅力の理解・把握②魅力を引き立たせる基本構造③魅力を際立たせる表現をコツとするアレンジ、「もとの作品に風刺やユーモアを加えて再創造したもの」であり「高度なからかい」であるパロディ、必ずオリジナルと比較されることを覚悟した上でコンセプトやアイデアの構造が時代の流れに耐えうるブレの少ないものであることが求められるリバイバルが挙げられていた。
「その前に、きみに理解しておいてほしいことがある。ぼくの世界じゃ、物語の移植というのは誰もが認めてることであり、尊重してることなんだ。芸術作品というのは重なり合うこともあるし、響き合うみたいなこともあるんだよ。いまの時代、盗用をめぐる懸念がいろいろあるから、それはひどく炎上しやすいものになってはいるけれど、ぼくは以前からそこには――そんなふうに物語が形を変えて何度も語られることには――ある種の美しさがあると考えてた。物語というのはそうやって世代を超えて生きつづけるんだよ。ある作家から別の作家へ、さらにはぼくへと、作品の着想を追うことができるなんて、ぼくには力強くてわくわくすることに思えるんだ」
P274/上段L1~13より引用
読書中1つ興味深かったのは、この物語のあらすじをかいつまんで説明したとき、夫が「一言『エヴァンへ捧げる』って書けばよかったのにね」と言ったことだった。なるほど、たしかに先に挙げた「オマージュとして盗む」方法とジェイコブの「盗用」の仕方で大きな違いは相手をまったく尊敬していないことにある。謝辞の有無はそのわかりやすい例だ。
また、夫とのディスカッションでもう1つ有意義だったのは、我々は体験することを怠っているという意見だった。SNSが発展したこの時代、私たちは知らず知らずのうちに自分が体験することを怠って、別の誰かの体験談を摂取し、まるで自分が経験したような心地を味わっている。耳に痛い話だった。よその体験談にインスパイアされてなにか物語を書きはじめるのは、むしろ私の常套手段だったから。夫は「吸収も体験の1つだよ」とも言ってくれた。それが救いだった。
だが、あの本の成功は、あの夜エヴァン・パーカーがリチャード・パン・ホールで語った物語を形にしたこの自分の才能と分かちがたく結びついている。あれはたしかに類を見ない物語ではあった。それはたしかだが、はたしてパーカーはそれを十二分に活かせただろうか? なるほど、文章を綴るそれなりの能力は持っていた。それはジェイクもリプリーで気づいていたが、しかし物語の緊張を作り出す能力はあったか? 読者の心をつかんで放さない能力は? 読者が関心を持って自分の時間を投じたくなるような人物を生み出す能力は?
P268/下段L5~15より引用
先の引用と対になる文章として、むしろこちらがジェイコブの本音なんだろうと思っていたけれど、これはこれで吸収という彼にしかできなかった体験だったのかもしれない。もちろん、昇華の仕方は間違っていたし、それとこれとは別問題だけれど。
なぜジェイコブは――いや、きっと彼だけではない。作家という生きものは、ときに尊敬ありきのオマージュではなく盗用という罪に手を染めてしてしまうのだろうか。
それは、作家が「病」であることが1つの本質のように感じる。
自分の体験に閉じこもっていると、自分の身に起きたこと以外のものを見るのは難しくなるかもしれないし、《ナショナル・ジオグラフック》級の冒険に満ちた人生を送っていなければ、小説に書くようなことは自分には何もないと思うかもしれない。でも、ほんの数分でいいから他人のニュースについて考えて、こう自問自答するようになればどうだろう? “これが自分の身に起きたとしたら?”とか。“これが自分とはまるでかけ離れた人物に起きたとしたら?”とか。“自分の暮らしているのとはちがう世界で起きたとしたら?”とか。“少しだけちがった状況で、少しだけちがった形で起きていたら?”とか。そうすれば可能性は無限に広がる。自分の行ける方向も、その途中で出会える人物も、学べることがらも。
P93/上段L1~14より引用
少し、自分の話をしようと思う。
小説の登場人物について考えるとき、私はまず履歴書をつくるところからはじめている。行き詰まったときは100の質問を開いたりして、彼または彼女ならなんと答えるかを考えてみる。これを練っておくと、登場人物の存在感が、少なくとも私の中では全然違う。そしてこれは一人の人間の人生を構築する作業で、このうちどれか一部でも創作に活かされた場合、それはもうまさしく『盗作小説』の世界なんだよな、とも思ってしまう。
最近でいえば、自分の小説に登場させるある女性について、私は全然、理解ができなかった。なぜそうしたふるまいをするのか、なぜそのようにしか物事を考えられないのか、自分で生みだしたはずの人間なのにまったくわからなかった。そもそも、世間一般の女性に私は謎の嫌悪感、あるいは恐怖心を抱いている。これを理解するために、そういう書籍も資料として買った。買ってわかったことは、女性が女性を嫌うとは、女性自身の「媚びることしかできない(=子を産む性として扱われることを受け入れて望まれたふるまいをすること)」女性性への嫌悪のことである――ということだった(三宅香帆『女の子の謎を解く』)。
だんだん彼女のことがわかってきた。
わかればわかるほど、苦しかった。
本書でも触れられているとおり、プロットとは「計略」である。なぜそうしたふるまいをするのか。なぜそのようにしか物事を考えられないのか。納得できる理由を、人生を、私は彼女に無断で構築している。すると、自分でも予想だにしていなかった事実が浮き彫りになってきたりする。こんな過去を、傷を、彼女に背負わせないといけないのだろうか。物語のために?
そして物語の進行上、彼女は人生でもっともつらかった過去を、主人公に明かさなければならなかった。彼女はそれを望んでいなかった。その世界において神である私がどれだけ誤解だと説得しても、彼女にとってそれは傷であり恥部だ。その主観は誰にも侵すことはできない。それは彼女に許された自由なのだから。
ならば、私がそれを、物語にすることは許されるのだろうか。
物語にした瞬間、彼女の傷を、恥部を知るのは、主人公だけでなくなる。私は読者にこれを告げ口する一方的な第三の人物になる。それは、彼女の幸せを願ってこの物語を書く行為と、本当に、両立させることのできる業なのだろうか。
作家が病である理由は……そう、この「理由」だと思う。本物の人生だったらあってもなくても関係なく進むあらゆる物事に対して、「理由」をつくらなければいけないことなのだと思う。むしゃくしゃしたからやった。たったその一言で済んでしまう物事について、なぜむしゃくしゃしたのか、物語は問われてしまう。フィクションで不条理は嫌われる。読者の生きているノンフィクションが、不条理だから。
彼らの満足のために理由を探すうち、作家は「理由」を求める生きものになる。「計略」を求める生きものになる。そんなものが存在しない、不条理な現実の世界でさえも。
精神衛生上、ときどきはメンタルに関する動画を見るようにしている。ああいう動画ではたいてい「自分事にしない」という話が出る。物事は俯瞰して見ようとか、自分の手に負えないことについては考えないようにしようとか、自分に関係のないツイートやニュースは遠ざけるようにしようとか。けど、自分からそれを自分事にしていくのが作家だ。自分事にできる人が作家にむいている、ともいえる。それはとても危ういように、おそろしいことのように、思ってしまう。
無理ですよ、わたしになんか。だって、小説を読むのは好きだけれど、一行書くだけでへとへとになっちゃうんですから。何ページも何ページも書きつづけるなんて想像もできません。ましてや現実味のある登場人物や、人をびっくりさせるような物語を書くなんて。どうかしてますよ、そんなことを実際にできる人たちがいるなんて。
P30/上段L9~15より
作家というのは、ある種の病気だ。「望んだことといえば、自分の内にある物語を――最善の順序で配列した最善の言葉で――語ることだけだ」こんなささやかな望みに対して、払うものが、とても大きいように思うこともある。
しかも困ったことに、何年もこんな病とつきあっていると、この孤独すら、苦悩すら幸福だという気がしてくる。自分の手にも負えない物語を書くこと。理解できない人間を理解しようと模索すること。本来はなくても成立する物事に計略を求めつづけること。ともすればそれは、現実の世界でそうすることよりも、苦しくて、楽しい。この病に罹りつづけるために、私は、現実の人生を生きているのかもしれない。自分の中にある世界。ここだけが唯一、途方もない苦悩の果てどうにか手に負えること、理解できること、納得のいく理由があることを約束された場所だから。
誰でも作家になることはできる。
語るべき物語があれば。
けれど私は、本当に、語る覚悟など持っているのだろうか。
未だわからぬまま書きつづけている。
数多の人間の人生を、創造しては、盗作しながら。