恒川光太郎『化物園』を読んだので、諸々の感想を残しておこうと思う。

 

ブログに感想を書く、という行為が久しぶりすぎて今までどういうふうにやっていたのかを完全に忘れた。ので、最新記事やランキングからいくつか記事を読み漁ってみたが、作品によって文体が違いすぎる。なに? mugitterって私の知らないところで5人くらい別のライター存在してるの??

 

文体といえば、たぶん今回の記事も前半と後半で人が変わる。それは『化物園』をホラー小説だと思って読みはじめたら後半なんか幻想小説だったでござる(困惑)なせいでもあるし、前半と後半のあいだちょっと日数が空いたせいでもある。そう、私はこういう短編集を読むとき、一篇読んだら感想を書き、また一篇読んだら感想を書き……を最後につなげて記事にするスタイルだ。

 

内容も、読みかえしてみたらもはや感想というよりここ最近のインプットのメモだった。自由帳である。たぶん小説の内容にはほとんど言及していないので、あとは、みなさんどうぞ自由に読んでください ( ´_ゝ`)

 


猫どろぼう猫

 

読んで最初に抱いた感想は「アンジャッシュが四人組になってホラーサスペンス風のネタやってる感じ」だったけれど、もちろんそういうおもしろさだけで終わらない。

 

わしは、もう長いことケシヨウという魔を追っていてな。

 

(P7/L2より引用)

 

ケシヨウというのは「化粧」のことだろうな、と思った。

 

化粧というのは基本的に女性が……と、書こうとしたのだけれど、意味を調べてみたらそんなことはまったく書かれていなかった。昔から顔や身なりを装えばそれは誰がしても「化粧」らしい。ケシヨウはなんにでもなる。女にも男の子にも犬にも。なるほど。

 

そして、「泥棒猫」という言葉についても勘違いをしていた。人の恋人を奪う者を指した言葉だと思っていたのだけれど、そもそもは「他家へ忍びこんで食べものを盗む猫」のことをいうそうだ。なるほどなるほど。

 

つまりタイトルの「猫どろぼう猫」とは「猫泥棒」と「泥棒猫」が合体した言葉であって、狙いをつけていた“食べもの”を紆余曲折の末、結果的に盗んだ“猫”のことをあらわしているわけだ。

 

「うめや~うめうめ、うめめ、おっと旦那、うめたまのうめこってそれはなまうめだ」

 

(P31/L4~5より引用)

 

ケシヨウがなぜ目玉を食うのかについて考えたとき、最初に思い浮かんだのはセイリッシュ海のことだった。

 

カナダとアメリカの国境にセイリッシュ海はある。

 

ここでは、2007年から21個の人間の足が見つかっていた。

 

じつはこれ、連続殺人事件でも超常現象でもなく、普通に科学で説明ができる現象だ。奇しくも同年、そして同じくセイリッシュ海ではとある実験が行われていた。カナダの法医学者・ゲイル・アンダーソンがカナダ警察研究センターからの依頼で、殺された被害者の身体が海中でどのくらい早く分解するかを研究していたのである。研究チームは豚の死骸を海に沈めた。死骸には大量のエビ、ロブスター、カニが群がり、「お尻の穴や、目、鼻、口など、身体のありとあらゆる開口部から入り込んで食べ尽くして」しまったという。

 

問題の足の部分だが、甲殻類などは骨やその他の堅い部分を避けて周りにある柔らかい組織だけを食べることがわかった。そして、股関節の堅い関節と違って、足首は靭帯など主に柔らかい結合組織でできている。つまり靴を履いたままセイリッシュ海に沈んだ死体は、海の生物に食べられて足首の関節が外れ、体から離れてしまったと考えられる。

 

さらに、ここ10年ほどの間に製造されたスニーカーはほぼ必ずと言っていいほど水に浮く。靴底にガスを充てんしたエアソールが一般化し(実際、セイリッシュ海のスニーカーにもこのタイプが見られた)、靴底自体に使われるスポンジ材も軽量化が進んだ。

 

セイリッシュ海の甲殻類たちを参考に考えれば、ケシヨウが目玉を食うのはおそらく目玉が一番やわらかくて食べるのが容易だからだが、ではなぜ最初に目玉を食べるのかについては、たぶん見えることは悪いことだからなのだと思う。

 

正確には、見たもの・ことだけで判断することは悪い、である。初めて盗みをはらたいたとき、羽矢子は自分がしたことについて「相手は〈貧乏人から搾取しているいけすかない金持ち〉に決まっている」と自己弁護していた。美佳は佐村邸から出ていく羽矢子を見て「新しい女」「会社の部下かもしれない」と早合点で怒りを募らせていく。

 

「ほんじゃまのおんなけ?」しゃがれ声は猫から発せられていた。

 

(P31/L8より引用)

 

妻のある男が他の女と関係を持つこと、またその相手のことを「間女(まおんな)」という。

 

とはいえ、最初は「間の女」ではなく「魔の女」という字が頭に浮かんだ。それは最初に老人がケシヨウのことを「魔」と呼んでいたからだし、個人的には間女よりも魔性の女という言葉のほうが聞きなじみがあったからかもしれない。

 

ほんじゃ(それじゃあ)間/魔の女け?

 

おもしろいのはこれがすべてひらがなで表記されているところで、「じゃ」と「ま」がならぶことによって「邪魔」とも解釈できるところである。

 

ほん(本当に)邪魔の(な)女け(だな)?

 

「たすけ? ほんじゃけ、どろぼうおんなけは、しぬけ、めんたまだもの、ねこどろぼうねこじゃけ」

 

(P31/L16~17より引用)

 

こじつけにはなるが、これで解釈した場合、「めんたま」とは目玉のことでもあるし目の上のたんこぶという意味もあるのかもしれない。目の上のたんこぶ、つまり邪魔なもの・うっとおしいものである。ただし、たんこぶは普通「たまこぶ」とはいわない。ので、やっぱりしょせんはこじつけだ。

 

ところで、なぜ古から女ばかりが化物扱いされるのだろうと不満だったが、それって男社会だから成り立つ話だよなとこれを読んで思い至った。男に権力があるから、その男をたぶらかす女は化物、ということでは?

 

まぁ、この話はどちらかといえば女が男に振りまわされてるから皮肉である。

 

そして、女も男も振りまわすケシヨウこそが本物の化物である、と。

 


窮鼠の旅

 

まず葬儀屋の人間と話さなくてはならない。これが嫌なのだ。息子は無職なのかと、そんな風に思われるのが嫌なのだ。つきあいの絶えている親戚連中と顔をあわせることにもなるだろう。従兄弟は愛知県で公務員をやっており、今や二児の父親でもある。幼い頃は一緒に遊んだが、およそ自分とは住む世界、吸っている空気の違う人間だった。基本的に誰も彼もが嫌いで会いたくない。

 

(P39/L6~10より引用)

 

ここが痛いほどわかってつらい。わかってしまう自分も嫌だ。そういう人なんだと、今この文章を読んだ人に思われるのも嫌だ。

 

「窮鼠の旅」というタイトルは窮鼠猫を噛むからきてると思うが、まず「猫」には二つ解釈があって、一つは世話になった女性のことを指していると思われる。「猫どろぼう猫」でも猫は女性の象徴というか暗喩? みたいなところはあったし。

 

なんだか犬のように女の出現を待っている自分に気がついていた。

 

(P60/16~17より引用)

 

で、土壇場で猫を噛むっていうのは飼い犬に手を噛まれるという言葉ともリンクしていて。噛む、かじる、というのは作中において一つのテーマかもしれない。本筋には関係ないけれど、彼岸花はもともと土葬で墓の下に埋められた遺体がネズミやモグラに食われないために植えられたという話を思いだした。

 

もう一つの「猫」は家に棲みついたケシヨウのことで、この場合、窮鼠猫を噛むは家に戻った王司が最終的にはケシヨウに勝利することを示唆する。勝利が意味するところはわからない。ケシヨウを倒すのか、あるいは父とともにケシヨウに食われる運命を避けてそれがさらに社会へ出ていくきっかけとなるのか。噛むを猫の喉元へ突っこむと解釈すれば、それは王司が自らケシヨウの口元へ飛びこんでいってついに自殺を完遂するともとれる。死化粧という言葉もあるしケシヨウとは基本的に「化粧」なのだと思うのだけど、対象に合った消しかた、消し様、というふうにもこの話ではとることもできる。

 

あと、自分も小説を書くので登場人物の名前についてはよく考察をするのだが、わざわざ「王司」なんて名前にするのは絶対意味があると思う。それで、ネズミと王の組みあわせってどっかで聞いたことあるなと思ったら『くるみ割り人形』だった。私も読んだことがないし、概要は割愛するが、個人的に気になったのはマリーのくるみ割り人形が醜い姿に変えられた青年であったこと、彼がネズミの王様を倒したことで本来の姿を取り戻し、そして人形の国の王様となってマリーを王妃に迎えたこと。これが(かなりアレンジはされてるけれども)モチーフになってるんだとしたら、ネズミの王様はたぶんケシヨウだ。猫だけど、王司的には「そうでないようにも見える」し。

 

さっき勝利が意味するところはわからないと書いたけれど、くるみ割り人形の話に沿うなら、なんらかの勝利によって最終的に王司は本人なりの〈本来の姿〉を取り戻すことになるのだと思う。

 

本人にとって、という部分が重要で、なんであれ最後は彼にとってハッピーエンドだろう。

 

こうであれと指図する権利は私にない。

 

ただ、共感できる部分はあったからこそ、最後は幸せであってほしいと願っている。

 


十字路の蛇

 

この世界は、私には想像もできない見えない糸が蜘蛛の巣のようにはりめぐらされている。絶対に相手に伝わらないと思った悪口が、どう巡り巡ってか相手に伝わる。

 

(P93/L16~18より引用)

 

どちらかというと蛇より狐を彷彿とさせる話だった。というのも、以前狐付きについての本を読んだときにこんな記述があったからだ。

 

第五に、死人の頭をくわえた狐が夢に出現した事件の印象は強烈である。修法をおこなう僧が、狐を派遣して怨家を降伏しようとしたのだ、と解釈できないことはない。しかし、地狐は焼かれる立場にあるのだから、この狐は、被害者に付いた狐だろう。六字天像の下には、狐と矢がしばしば描かれるが、修法の験力で被害者から追い出され、のこのこと現れた狐は射殺されかねない。自身が無事であるためには、自分を雇った者を裏切り、これを殺害しなければ許されないのかもしれない。

 

――中村禎里『狐の日本史 古代・中世びとの祈りと呪術』より

 

六字教法という狐落としの呪法についての記述である。長くてなんのこっちゃだと思うが、注目すべきは人に付いた狐が自分を付かせた相手を裏切り夢の中でその者の首を見せることで術者に許しを請うた、という点である。これは蛇が電話で語った「一人は首を咥えて、川に放りこまれた」という言葉と重なる。

 

ではなぜ狐でなく蛇なのかというと、同じ本に12世紀の終わりには農耕神またはその眷属としての蛇の役割を狐が奪いはじめていた、とある。墓地に出没するなど死霊の象徴とされた蛇よりもイヌ科としての愛らしさも見せる狐のほうが神には似つかわしかった、と。

 

「窮鼠の旅」でケシヨウは数百年を旅して回り、と言った。さらに「猫どろぼう猫」では何にでもなる、と。時代によって、また捕食対象の心理や生活環境によって自在に姿を変える。今回の場合、蛇の姿がふさわしかったということかもしれない。死霊の象徴である蛇の姿が。

 

蛇といえば、進化の速度が以上に速く、未だに新種が発見されていて、最近だと2021年にはインスタグラムにアップされた写真の中から新種のヘビが発見されたなんて話もあった。蛇の話で最近個人的に衝撃を受けたのはこんな話である。イランに生息するスパイダーテイルドクサリヘビという蛇は先端がまるで本物のクモのような形をした奇妙な尻尾を持っていて、それを疑似餌に獲物を引きつけて捕食するらしい。

 

いろいろ脱線したが、とりあえず、口は災いのもと。迂闊に悪口や根拠のない噂など誰かに話すな、という話である。

 

人の立つ場所など思っている以上に脆いのだ。しかるべき場所に電話を何本かかければ、いくらかの写真を送れば、いくらかの言葉を誰かに吹き込めば、それで全てを失う。

 

(P98/L5~6より引用)

 

おまえはおまえのしたことで全てを失う。

 

そう、まるでぐるりとまわって蛇が自らの尻尾にかじりつく……ウロボロスの蛇のように。

 


風のない夕暮れ、狐たちと

 

最低の人間ばかりがでてくる短編集を三話ほど読んだところで、脳が疲れてきた。

 

(P101/L1より引用)

 

狐を彷彿とさせる、なんて書いていたら狐だし、冒頭でこんなことを言われるのでぎょっとする。正直、本書においてはどんな物語よりここの完璧な一致が一番こわかった。作者の手のひらの上で踊らされている。まぁでも、まんまと踊らされるこの感じが好きなのだが。

 

先ほどは狐付きについて書いたので、ここでは狐持ちについてアウトプットをしておこうと思う。

 

狐持ちとは、狐を飼育し、害意の対象である相手にその狐を付ける者、あるいはその者の家をいう。興味深いのは、狐持ち筋が意図して他人に狐を付けるのではなく、自分の家に狐がおのずから付いてしまうそうである。したがって災厄を被るのは自分たちであり、狐持ち筋が嫌われる理由は、正確には狐に付かれた家の不幸が伝染するのが恐れられたためだった。

 

ここでいう「狐」とはオサキ狐、クダ狐、人狐など地方によってさまざまだが、オサキ狐に関していえばこんな話がある。オサキ狐は人に付くのではなく、単に食を求めて家に居付くのだ。ゆえにきちんと食いものを与えてやれば害はないが、満足しなければ主人に仇をなし、ついにはその腹に入って食い殺す。しかも、血筋の者に付くだけでなく、この家の者を入れた他家にも付き、新しい家でも待遇が悪ければ仇をなすという。

 

「ご依頼いただければ、あなたは一切何もせず、私が、ここの家と土地をあなたのものにしてみせます。支払いは後払いです」

 

(P127/L6~7より引用)

 

あまりにも、似てやしないか?

 

六字教法の他、時代によって狐落としにはさまざまな方法があったようだが、その中の一つに要求の容認というものがあった。付いた狐の要求を認めて(叶えて)退去してもらう方法である。単純でばかばかしくも見えるが、精神医学の観点から説明すると、狐の願いを叶えるとは狐付きめいた精神病(心因反応)を引き起こした原因を排除することであり、したがってその要求が叶ったとき患者は「狐が落ちた」状態になるのだそうだ。

 

掃除をしなくては。

 

(P145/L17より引用)

 

彼女はこの家の、狐の、望みを叶えることができただろうか。

 

自分ばかりが望むものを得て。

 

あるいは、狐谷に行くことでこの家にとっての彼女の存在意義は果たされるのかもしれない。

 

答えはわからない。

 

知りたくても、彼女はやがて狐谷へ行き、そしてそれきり帰ってこないのだろう。

 


胡乱の山犬

 

昔から歴史が苦手だった。日本史はとくに苦手なので開幕早々「うわ歴史系か」と閉口したのだが、端的にいえば江戸時代のサイコパスの話である。主人公は物心ついたときから心に〈残虐〉を飼う男で、〈残虐〉に支配されると衝動的に生きものを殺してしまう。時代小説風ながら普遍的かつ今風なテーマでその融合が興味深く、受けいれやすかった。こういうところに作者の技量を感じてぞくぞくする。

 

さてその主人公だが、たったの九歳でとうとう人間――弟に手をかけ、村の大人たちによって“オイヌ穴”へと押しこまれてしまった。

 

格子の影が入り口の壁面に模様を作っている。何もせずじっとしていると時間の感覚が狂い、時折、何万年もの月日が流れ、それでもまだ自分がここにいるように思える。

 

(P158/L16~17より引用)

 

このとき、私のほうはステファニアの洞窟隔離実験のことを思いだしていた。

 

1989年1月13日、アメリカのニューメキシコ州にある洞窟「ロスト・ケイブ」にてある実験が行われた。それは、光も音も届かない洞窟の中で人間が一人きりで生活した場合どうなるのか、という実験であった。実験期間は4ヶ月。被験者には心身ともに健康でたくましいステファニア・フォリーニという女性が選ばれた。

 

洞窟は地下3階程度の深さの場所にあり、事前に摂氏20度に保たれ、研究チームによって充分な居住スペースが確保されている。就寝時でも部屋を完全に暗くすることはできず、カメラが設置されているためバスルーム以外でのプライベートは皆無だが、椅子やテーブル、医療機器、研究チームと連絡が可能なPCの他、充分な食料、さらには時間がわかるもの以外であれば私物の持ちこみも許可された。ここでステファニアは日にちを自分で数え、毎日身体の状態をチェックし、たまに詳細な身体検査を行う。一見過酷な環境のようにも見えるが、彼女は持ち前のたくましさですぐ生活に慣れ、「自分は洞窟で生まれたんじゃないかと思うほどです」などと語ったという。

 

とはいえ、長時間の洞窟での生活は彼女を確実に変えた。

 

実験開始当初、彼女の起床時間は午前6~9時のあいだだった。ところが3~4週間ほど経つとそれが正午になり、さらに数週間後には午後8時にになった。午後8時である。それでも、彼女は朝だと認識していた。

 

ときには30時間起きている日もあり、1日が42時間になったこともあった。14時間以上ねむったにも関わらずそれを2時間と認識することもあった。

 

1日の感覚が伸びたことで食事をとる間隔も伸び、次第に体重は減少した。それだけではない。集中力は著しく低下し、1時間前にやったことさえ思いだせなくなった。あらゆる感情の起伏が激しくなり、彼女は次第に洞窟をこわがりだした。ねむりにつくとしばしば地上の夢を見た。

 

そして4ヶ月後、実験は無事終了する。

 

研究チームが実験の終了を告げたとき、彼女はこう言ったそうだ。

 

「博士、まだ2ヶ月しか経っていませんよ」

 

結果として、ステファニアの1日の感覚はほぼ倍に伸びた。体重は11キロ減。地上に戻ったあともしばらくは時間感覚が戻らず、集中力が低下した状態がつづいた。身体がすべて本調子に戻るまでには約1年もの歳月がかかった。

 

だいぶ話は逸れたが、なにが言いたいかというと、遺伝的な要因がなくとも人は存外容易に狂えるということである。生きていれば誰でもどこかが汚れて、こわれて、狂うのである。それを裁くのが正義であり、赦すのが愛なのだろう。ただし、それはどちらも裏を返せば単なる傲慢でもある。

 

確かに私は生きていても碌なことをしないだろうと、自分でも思った。

 

(P158/L12より引用)

 

そうかもしれない。が、だからといって、村にとって危険な人間を石牢に閉じこめるという行為は正常な人間がすることだろうか。それは仕方ない殺しだろうか。

 

胸に手を当てて考えてみる。私の中にもおそらくは〈残虐〉がいる。姿かたちは違うだろう。けれどたとえば、それを抱えて生きていくことの苦しみは同じだ。

 

主人公は最後まで「うさぎぴょん」という言葉の意味を気にかけていた。

 

うさぎ追いしかの山――私にはこれが、人間を最初に狂わせるものは故郷(生まれたそのときの環境)である、という話に思えてならない。

 


日陰の鳥

 

悟る、というのは無我になることだと思う。

 

無我と無はまったくの別物である。無我の境地に達するというのももちろん難しいことではあるが、無になることはそもそも科学的には不可能だ。そして無我になることについてだが、とくに今の時代、むしろ明確で強固な自我を持っていることこそが人間の尊厳であるかのように思われている個人主義や多様性の中ではことさら難しいことだと思う。

 

が、無我とは自我を放棄することではない。

 

鈴木祐『無(最高の状態)』では、無我の境地についてこのように説明がある。

 

要するに、無我によって起きる変化とは、高僧や仙人だけが得られる特別な境地ではなく、すべての人間が生まれながらに持つ“善の力”が高まったものだと言えます。自己が消えたことで歪んだ思考と感情のくびきから外れ、理性・共感・判断などの能力が存分に発揮できるようになった状態です。

 

――鈴木祐『無(最高の状態)』より

 

無我の境地とは己を消すことではなく己と世界との境界をなくすことであり、善でもって悪を克服しつづけること、なのだと思う。それは、たぶん難しいことではないはずだ。なぜなら「つづける」ことにゴールはない。それぞれのやりかたで改善をつづける、それをはじめた時点で、ある意味無我は達成されたといえるからである。

 

港町を徘徊する薄汚れたリュクは誰の目にも不幸の極みに見えていたが、リュク自身は不幸を感じたことがない。そもそも幸福や不幸といった概念がない。己の暮らしが底辺だと思ったこともない。目に映るのは森であり砂浜であり川べりであり町であり、空であり動物である。そこに上も下もない。

最初から家族も資産もなく、失うものがない。文字も言葉もなかったから、思想もない。国家の概念もない。チャム族が滅びてベト族が支配しようと、闍槃(ヴィジャヤ)が陥落しようと、ヴェーダの経典が全て焼かれようと、リュクには苦痛も悲嘆もない。

そのため、ここで命を捨てる理由がない。今は昔よりも賢い。たぶんここにくる前よりも賢く立ち回れる自信すらある。

 

(P229/L9~17より引用)

 

とはいえ、リュクのことをどう思うかというと、気持ちは複雑である。事態はたぶん最悪ではないだろう。けれど……幸福や不幸の概念がないこと、失うものがないこと、それは安心にこそなれ、はたして善いことなんだろうか。人として。

 

毛色の違う話がつづいたのでしばらくケシヨウについての考察がご無沙汰になってしまったが、個人的には最後の「彼の国は亡びたからな、その名も忘れた。ま、うまくやれな」という言葉が玉藻の前っぽくもある。

 

そういえば、玉藻の前も日本へ渡ってくる以前は唐や天竺で国を滅ぼしたりした。

 

インド、中国、そして日本と三国をまたぐ物語である。

 


音楽の子供たち

 

なんだか「胡乱の山」あたりから話が抽象的になってきたなという感はあったけれど。完全に幻想小説だった。最初からホラー小説として、そしててっきりここまで一貫して登場してきたケシヨウとはなんだったのか、その正体が明らかとなり人間とのあいだでなんらかの決着がつくのだと思っていたので、個人的にはすっきりしない最終話であった。

 

いや、本作で「ケシヨウ」とされていたものの正体(背景?)はなんとなくわかったし、決着も、一応ついたといえばついたのだけれど。どうにも言語化できない。それは作者の技量ではなく私の読解力・想像力の乏しさのせいである。

 

先ほど「胡乱の山犬」で洞窟隔離実験の話をしたが、その延長で、陽鍵たちが置かれたこの状況については洞窟の比喩を思いだした。

 

哲学者プラトンがイデア論を説明するときに用いたとされる話である。

 

生まれたときから洞窟に閉じこめられている囚人たちがいる。彼らはみな、洞窟の壁を見つめて生きていた。彼らは身体を縛られており、周囲の様子を観察することができないため、目の前の壁に写しだされた影こそが世界のすべてだと思いこんでいる。

 

あるとき、一人の囚人の拘束が解かれた。自由になった彼は周囲を観察し、今まで世界のすべてだと信じてきたものが火に照らされた影であったことを知った。さらに洞窟の外へ出ることで彼はあらゆることを学び、これらの出来事を洞窟内の仲間に伝えるのだが、仲間たちは誰一人彼の話を信じようとはしなかった。

 

私たちが本来持つべき自由と誇りを手に入れるには、ここでずっと風媧のための音楽を奏でていては駄目だというのが、私の結論だった。

 

(P292/L5~6より引用)

 

洞窟の比喩に物語を当てはめたとき、陽鍵は間違いなく拘束を解かれ洞窟の外を見た囚人だ。そして洞窟の比喩と異なるのは、仲間たちもまた薄々は自分たちの置かれた状況に疑問を抱いていたという点である。だが、重要なのはそこではなく、全員が洞窟を出たとしてそれは彼らにとって幸福であったか、ということである。

 

独断で楽園を破壊した自分が受け入れられるだろうか? 彼らの生活の何もかもを消してしまった自分の行為の身勝手さを、彼らはどう解釈するのか。

 

(P302/L2~3より引用)

 

ルフォネの手紙を読むに、その答えがNOである子もいるだろう(後味が悪いのは、察するにこの陽鍵以外の子供たちの末路は読者しか知ることのできないところである)。けれど、答えが出せるのはあのとき誰かがやらねばならないことを陽鍵が成したからこその結果でもある。清と濁、どちらもを経験しなければ人は正解というものを導きだせない。このあたりは「日陰の鳥」の主題ともつながってくる。

 


 

というわけで、以上、恒川光太郎『化物園』の雑感。

 

長すぎる。

 

何文字書いたんだろうと思って文字カウント確認したら、1万字だった。

 

 

 

参考にしたサイト一覧

人間の足が続々漂着「セイリッシュ海の謎」、科学で解明 – ナショナル ジオグラフィック

「どうみてもクモにしか見えない尻尾」で獲物を誘うヘビ – ナゾロジー

【ゆっくり解説】4ヶ月地下に閉じ込められると人はどうなるのか – 生命科学・人間生物学

プラトンのイデア論「洞窟の比喩」とは?図と具体例でわかりやすく解説!| ズノウライフ

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Writer
佐々木 麦 Sasaki Mugi
小説を書いたり、読んだ小説についてあれこれ考察をするのが趣味です。雑食のつもりですが、ユニークな設定やしっかりとテーマがある小説に惹かれがち。小説の他に哲学、心理学、美術、異形や神話などの学術本も読みます。