小学生の頃に一度だけ、
幽霊…かもしれない存在と出会ったことがあります。
長袖を着ていたから季節は春か秋。
学校から帰る途中で空はまだ明るかった。
一人で下を向いて歩いていたはずが、
視界の右端にいつのまにか女性の脚が見えている。
細身でベージュのパンツに赤いハイヒールだったのを今も鮮明に覚えている。
最初、空目だと思いました。
上着のフードについている紐が揺れているのを見間違えたのだと。
だけど黄緑色の紐をベージュと赤に空目するなんてこと、あるでしょうか。
見間違いは大抵、
気づいてしまえば正しく修正される。
ところが「紐だろう」と理解しても脚は消えない。
そもそも紐と同じペースで動いているのだから、当然、紐“も”見えているわけで。
しばらく並んで歩いたあと、
気がつくと脚は見えなくなっていました。
怖くなかったな、と、あとで思ったものです。
大人になった今でも幽霊は怖いはずなのに――。
「あなたに自分の話を聞いてほしいの」
彼女もまた、
話を聞いてほしくて私のこと追いかけていたのかな。
キャンデス・フレミング(三辺律子 訳)『ぼくが死んだ日』を読んで遠い日に想いを馳せる。
聞いて、わたしたちの“さいご”の物語。
「ねえ、わたしの話を聞いて……」
偶然車に乗せた少女、
メアリアンに導かれてマイクが足を踏み入れたのは、
十代の子どもばかりが葬られている、忘れ去られた墓地。
怯えるマイクの周辺にいつのまにか現れた子どもたちが、
次々と語り始めるのは、彼らの最後の物語だった……。
廃病院に写真を撮りに行った少年が最後に見たものは。
出来のいい姉に悪魔の鏡を覗くように仕向けた妹の運命は。
ノスタルジー漂うゴーストストーリーの傑作。
※あらすじは東京創元社HP「内容紹介」より引用しました。
http://www.tsogen.co.jp/np/isbn/9784488515034
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読書コミュニティサイト「本が好き!」で出会った1冊。
表紙とタイトルに惹かれ
内容の前情報がほとんどないまま読みはじめたけれど、
翻訳がとてもなめらかで読み心地がとてもよく好感触。
ホラーのバリエーションが豊富で飽きないところもいい。
しかも水面下にあるテーマ性や読後感はホラーだけに留まらない。
物語に散りばめられたさまざまなモチーフを探すのも楽しかった。
特別好きという短編はあるけれど1番を決めるのは難しいです。
「ジーナ」や「リリー」の結末には考えさせられるものがあったし、
「デイヴィット」「リッチ」で描かれる主人公たちの人間関係も好きだなぁ。
以下、各短篇の感想をまとめました。
これは因果か、偶然か、運命か。
ジーナ:
退屈な人生から逃れるために“物語”を語る“うそつき”少女。
彼女の通う学校に転校してきたのは――もうひとりのうそつき。
***
自分もジーナと同じ感覚で“物語”を語る癖を
幼少期に持っていたから彼女につい肩入れしてしまって。
ジーナのキャラクターはオオカミ少年を連想させるけど、
大きく異なる点は彼女の嘘はあくまで自分に向けた嘘であること。
嘘の性質が違う両者がどちらも等しく「嘘」であるという認識は、
どんな状況下での犯罪も皆等しく「罪」であること、に似ている。
こうした表面的な事実は重要なことではあるけれど、
そこに至るまでの過程には一人ひとりの物語があり、
考慮されるべき点だから、見極めは難しいけれど見過ごしてはいけませんね。
最後(最期)はとにかく後味が悪かった。
彼女の望んだ後日談になるとは私は到底思えない。
死人に口なし――ということわざは彼女の国にはあっただろうか。
ジョニー:
学校を退学になって“葬儀屋ビジネス”へ転身した少年。
ある日盗みに入った葬儀屋で、彼は因縁のあった教師の遺体と遭遇する。
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方法はひとつしかない。
降参して、言われたとおりにするのだ。
おやじがミュラーの酒場でウィスキーをしこたま飲んで、
ふきげんになって帰ってくるときと同じだ。(P65/L6~7より引用)
上記引用を読むかぎり
父親の家庭内暴力を受けていたのは明白だし、
彼の学校での態度から考えてもあの「将来有望」は幻聴。
因果応報の一言で片づけるにはあまりにも気の毒ではなかろうか。
ボーラム先生が蜘蛛を怖がるのは、
以前『ゴーストフォビア』という小説で
蜘蛛を怖がる恐怖症(アラクノフォビア)があると知ったので気にとめなかったけれど、
ジョニーの最期に蜘蛛が出てきたのはさすがになにかの暗喩なのかなと調べてみました。
どうやら精神分析の世界で
蜘蛛は古くから陰湿な女性の象徴とされていたらしい。なるほどボーラム先生。
またスピリチュアル的な解釈をすると、
夜の蜘蛛は「死」を意味するそうなので
ジョニーの最期を描くにはうってつけのモチーフだったわけですね。
夢占いのサイトなんかではストレスを意味するとも。
文脈から察するに、表立って語られていないだけで、
飄々とした態度の裏で居場所や恐怖・怒りのやり場を彼は探していたのかもしれない。
スコット:
「幽霊なんか、いるわけないだろ」
幽霊が“いないこと”を証明するために少年が訪れたのは、廃病院。
***
スコットが「偶然」を強調していたのは、
おそらく彼の名声や賞賛を求める内面に起因しているのではないかと。
マイクの「ひどいな」という感想に少々沈黙があったのも、
自らの、それこそ文字通り“命を懸けた”物語に対して
理想的な評価が下されなかったことへの落胆があったからだと考えています。
想像力ってのは、おかしな影響をもたらす。
論理的に考えりゃ、決してたどらないような思考回路をたどってしまう。
どう考えてもイカれてるとしか思えない考えで、頭がいっぱいになる。(P94/L7~8より引用)
彼自身このように語っているように、
まさしく人間は根っからの空想家であると思う。
偶然にさえ「偶然」という物語性や意味を見出そうとするのだから。
生前、
幽霊なんているわけないと思っていた自分が
当の幽霊になっているとはなんとまぁ滑稽な。
今なら廃病院も怖くないのでは?いや、でも怖いものは死んでも怖いままなのかな。
デイヴィッド:
妹が注文して買った『即席ペット』。
どうせくだらないガラクタで、金の無駄だって、思っていたのに……。
***
まるで映画でも観ているようなテンポの良さと臨場感。
B級ホラーみたいなノリでゲラゲラ笑っていたはずなのに、
ラストは想像もしていなかった悲しさに打ちひしがれ…やはり兄妹小説は、良い。
子供の頃、
兄と風呂場に石鹸を転がして
アイススケートごっこ!とかやっていた日々を思いだしました。
「即席ペット」を想像しようとすると
なぜかウーパールーパーが出てきてしまう。
しかも画像検索してみたら思っていたよりも不気味だった。あんな顔だったっけ。
エヴリン:
見た者は次々に消えてしまったという悪魔の鏡。
出来が良くて大嫌いな姉に鏡をのぞかせれば、彼女も消えてくれるの?
***
強欲、食欲、怠惰。
悪魔の鏡は七つの大罪がモチーフかな。
鏡は自分を写しだすものだから
罪(本性)をあぶりだすアイテムとして最適だし、
なるほど、鏡だから双子ね。小道具や設定の結びつきが緻密で素晴らしい。
最後の2行はとてもきれいな文章で印象的だった。
P149~150の様子を見るかぎり、
彼女の罪は鏡を通すことで取り除かれたのかな。
鏡の虚像と自分が似て非なるものであるように、
双子の姉妹もまた違っていてあたりまえ。これからは仲良くね。
リリー:
恋人の弟がガレージセールで買った〈サルの手〉。
この手を持った人間は3つの願いを叶えることができる、だからお願い、どうか――。
***
リリーも災難だったけれど、
これ一番つらいのは恋人の弟・ドリューだろう。
ドリューもまたパテル氏のように、
いつか「もう二度と、こいつは見たくない」と言うだろうか。
愛に狂いながら死んだリリーの最期は
漠然と覚えていた〈歌いながら入水自殺した女性〉を彷彿とさせ、
誰だったかなと調べてみたら『ハムレット』のオフィーリアだったからびっくり。
なるほど作中にはシェイクスピアの作品群も登場しているし、
「それから、あたしはふわりと浮かんだ。ふわふわと……」(P181/L8~9)
ここは溺れる前に歌を唄いながら浮かんでいたオフィーリアを描いた
ジョン・エヴァレット・ミレーの絵画『オフィーリア』を思いださせる。
リリー。
百合はその清楚な花と
毒々しいおしべとを同時に併せ持つ、ちょっと不気味な花だ。
恋する少女の盲目的で狂気すら感じる愛を語るにふさわしい名前だったと思う。
リッチ:
雄馬のフードクレストマークを盗んで以来、友人の様子がおかしい。
「いかなきゃ」 彼は連日連夜、一体、どこへいっているというんだ……?
***
まるで悪魔のような雄馬。
フードクレストマークの描写で思い浮かんだのが、
ゲーム「ペルソナ5」に登場するバイコーンとケルピー。
リッチが最後にたどった道順が
沼地→血のように赤い川→湖だったこと、
また作中「溶鉱炉」「水ぶくれ」「(キノコの)毒液」など
液体を連想させる言葉が多かったことから最初はケルピー説で考えていた。
ところがあとになって読み返すと、
「ひたいに小さな角のような突起がふたつ」(P194/L12~13)
とあったのでバイコーン説も完全には捨てきれず未だ結論は出ていない。
これは自分以外の人からもぜひ御意見を拝聴したいところ。
よかったらみなさんも
バイコーンとケルピーについて調べつつ、
あのフードクレストマークの正体について考察してみてください。
長くなりそうなので
バイコーン/ケルピーの詳細や考察はここに書けないけれど、
徹底的に考えたい仮説なのでいずれ考察記事として書きたい。
エドガー:
幼い頃から没入癖を持っていた少年。
ああ、神様。没入さえなければ。あれさえ見なければ。
***
エドガーにアッシャー夫人といったら、
やはりポオを意識したのかなと勘ぐらずにはいられない。
没入癖という言葉は初めて耳にしたけれど、
エドガーを見るかぎり本人の負担は相当なものだろう。
集中すること・考えることってすごく労力がいるから、
周囲の理解とサポートが絶対不可欠だと思うのだけど
「没入癖」という知識がないと理解されないものだろうしな。
以前、
森晶麿『黒猫の接吻あるいは最終講義』にて
ポオの作品における歯についての解釈を読んだけれど、
父親の歯という舞台装置もやはりポオから着想を得たのだろうか。
トレイシー:
母が刑務所に入り、叔母の家に住むことになった少女。
その晩、彼女は叔母がかつて“美しき女泥棒”だったことを知る。
***
叔母の家がゴミ屋敷だったのは
純粋にカムフラージュもあったんだろうけど、
喪失への大きな反動だったようにも感じます。
知念実希人『天久鷹央の推理カルテⅣ 悲恋のシンドローム』では
ゴミ屋敷について「物を捨てるということに対する恐怖が強い」としていたから。
母が刑務所、
叔母が元女泥棒だったとすると、
トレイシーにとっても犯罪が身近であることで
犯罪の連鎖に取りこまれる可能性もあったわけで。
そう考えると彼女の死は運命からの離脱・解放だったのかもしれない。
もしそうであったならば、彼女は救われた、と思ってもいいのだろうか。
犯罪つながりというわけではないけれど、
性格的にトレイシーとジョニーはなんだか馬が合いそう。
彼の死もまた家庭環境や貧困、犯罪からの解放ではあるし。
死者のための物語
当然ながら、
ホラー小説というのは生者のための物語だ。
生者(読者)を怖がらせ・楽しませるためのコンテンツにすぎない。
「罪の報いだって思うなら、
そう、因果応報だって思うなら、勝手に思ってりゃいいさ。
(中略)
ただの偶然だ。
死っていうのはそういうもんだろ? 気まぐれなんだ」(P82/L5~L8より引用)
ところが本書には、
どこか憎めない子供たち、理不尽な死、それを認めあう空間。
節々に死者のための祈りがあってここに作者の人柄を強く感じる。
マイクに語りかける幽霊は
さまざまな時代を生きた少年少女たち。
歴史は彼らをもって存在しているという事実が深く心に刻まれた読後感でした。