早見和真『イノセント・デイズ』を読了。数年前に〈このミス〉で見たタイトルの「イノセント(無垢)」にまったく似つかわしくないひたすらに陰鬱とした表紙デザインとあらすじが忘れられず、文庫化したタイミングでいよいよ覚悟を決めて手を伸ばしました。物語としては作中の言葉を借りれば「ステレオタイプ」。日本推理作家協会賞を受賞した作品だそうですが、個人的には物語性ではなくテーマに核がある硬派な社会小説だと捉えています。
徹底した明確な拒絶
田中幸乃、30歳。元恋人の家に放火して妻と1歳の双子を殺めた罪で、彼女は死刑を宣告された。凶行の背景に何があったのか。産科医、義姉、中学時代の親友、元恋人の友人、刑務官ら彼女の人生に関わった人々の追想から浮かび上がる世論の虚妄、そしてあまりにも哀しい真実。幼なじみの弁護士たちが再審を求めて奔走するが、彼女は……筆舌に尽くせぬ孤独を描き抜いた慟哭の長篇ミステリー。
※あらすじは新潮社HP(http://www.shinchosha.co.jp/book/120691/)より引用しました。
元交際相手の妻と娘2人を放火によって葬った残酷な事件と犯人はいかにして生まれてしまったのか――。真相をその周辺人物たちの追想によって炙りだしていく構成は湊かなえ『白ゆき姫殺人事件』を彷彿とさせるけれど、本書からは読者が抱かざるを得ない同情も疑念もいかなる感情も許さない田中幸乃の徹底した明確な意思を感じる、という点で、かの城野美姫とは決定的に異なる。あちらも数年前に読んだきりなので、これを機に秀逸だった映画化作品とあわせてまた読みなおしたいな。
田中幸乃を紐解くためのアドラー心理学
本書を読むほんの少し前、たまたま岸見一郎・古賀史健『嫌われる勇気』を読んでいて、幸運にもこれは双方を理解するうえで大いに役立ちました。
曰く、人間面・心理面のありかたの目標として、「自己受容」「他者信頼」「他者貢献」という3つの要が存在するとのこと。本記事はあくまで『イノセント・デイズ』の感想記事なので詳細は割愛するけど、人とのつながりを渇望した幸乃の生きかたはこの他者貢献の意識であったに違いない。
しかし、他者貢献は自己犠牲や承認欲求を認めるものではありません。
承認されることが幸福なのではなく、私には価値があって他者に貢献しているのだ、と、自らの主観によって思えることが幸福なのだという。低すぎる自己評価と他者への信頼が彼女を絞首台へ導いたのだとしたら、なるほど、先の3つの要が円状にあって3つで1セットである、どこかが突出していてもいけない、という考えかたは腑に落ちる。
これは“ハッピーエンド”の物語なのか
自分が自分らしくふるまうことは自分自身の課題であるが、まわりがどう思うかは他者の課題であり自分には関係ない。他者の望む人生=他者の人生を生きるのではなく正真正銘自分の人生を歩め。…というのが、アドラー心理学の考えかた。となれば幸乃が死刑囚となった経緯もまた“彼女の課題” であり、受け入れがたい真実ではあるけれど彼女をめぐる一連の物語はハッピーエンドであったのだと私たちは認めなくてはなりません。
今、幸福か――と問えば、彼女の答えはきっとイエスでしょう。私たち他者によるあらゆる感情は無力だ。ならばせめて、死刑判決を粛々と受けとめたあなたの背中から、どうか私たちに考えさせてほしい。
「なんか、いかにもだよね」
あの日は何も感じなかったはずの言葉に、なぜか強烈な嫌悪感が湧く。私は何かを決定的にはき違えているのではないだろうか? そんな不安が胸に滲む。(P37/L2~4より引用)
部外者が責任も覚悟もなく安全圏から人を嘲笑したり、評価したり、批判したり、裁いたり。
そんなことに意味や力はあるのだろうか、と。
2017年8月9日に加筆修正しました。