加納朋子『トオリヌケキンシ』を読みました。先々週くらいに書店へ行ったとき例のごとく知人に適当に数冊小説を見繕ってもらったのですが、そのうちの1冊がこれで、私も書架をまわっているあいだに気になった1冊。見れば作者は『カーテンコール!』の加納氏だし、私と知人どちらの目にも留まるということはこれまで一度もなかったので絶対に良作だろうと確信して買ったら本当に良作でした。
人がこわいと感じてしまうときに
人生の途中、はからずも厄介ごとを抱えることになった人々。でも、「たとえ行き止まりの袋小路に見えたとしても。根気よく探せば、どこかへ抜け道があったりする。」(「トオリヌケ キンシ」より)他人にはなかなかわかってもらえない困難に直面した人々にも、思いもよらぬ奇跡が起きる時がある――。短編の名手・加納朋子が贈る六つの物語。
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加納氏の作品はまだ『カーテンコール!』しか読んだことがないのですが、ネタバレにならない範囲で書くと、本書の登場人物たちが抱えるものはたとえば共感覚であったり、イマジナリーフレンド、相貌失認(人の顔を識別できない脳障害の失認の一種)。
周囲からなかなか理解を得がたい困難の中で生きる、というテーマは『カーテンコール!』に通じるものがあり、主人公の孤独や閉塞感を繊細に描きながらも最後には必ず希望の光を感じられるあたたかいおはなしの数々は日生マユ『放課後カルテ』(漫画)を彷彿とさせ、対人恐怖症の私なんかは人がこわいと感じてしまうときにこそまた読みたいなと思いました。誰だってみんな、他人には理解できないモノやコトを抱えて、それでも生きているんだよなぁ。
どれも優しい読後感を味わえる短編ですが個人的には「平穏で平凡で、幸運な人生」と「空蝉」「座敷童子と兎と亀と」あたりが好き。次項にそれぞれ詳しい感想を書いていきますのでその他の短編と併せてどうぞ。
人と人とはトオリヌケ キンシ
トオリヌケ キンシ
「トオリヌケ キンシ」の札がある細い道、いや、隙間を「じゃあ通りぬけてやろうじゃん」という気になって進んでみた小学生の〈おれ〉は、その先にあった“ボロいうち”に住むクラスメイトの女の子・あずさと彼女の祖母に出会い、ささやかな交流をはじめる。あれから時が経ち、彼女とは疎遠に、そして〈おれ〉は――。 |
まったくネタバレにならないので言いますが、最初、あずさとおばあちゃんがどうして「トオリヌケ キンシ」の札の奥に住んでいるのかわからなくてあずさが誘拐とか監禁とかよからぬことに巻きこまれているのではと心配してしまったけどまったくそんなことはなかった。札とか隙間とか自分が今までの人生で見たことない光景の描写だったので家の周囲を上手くイメージできなかったのが原因と思われる。疑ってすまなかったなおばあちゃん。
「何言ってんだよ。おれはおまえを助けたことなんてねえよ。救ったって、何、それ。他の誰かと間違えてんじゃないの?」
(P33/L1~2より引用)
陽くん(おれ)、誰かを救うことって、本当は目に見えないし自覚できないものなのかもしれないね。だって「助けたい」という気持ちと「助けられた」という気持ちの持ち主は別々の人なのだから。岸見一郎・古賀史健『嫌われる勇気 自己啓発の源流「アドラー」の教え』にも書いてあったけど、自分自身の存在自体が、他者貢献になることもあるんだよ。陽くんの存在はまさにそれなんだ。
迷路には右手法という、右側の壁に手をついてひたすら壁沿いに歩いていくといずれ出口を見つけることができるという手段があります。どこにだってきっと出口はある。この身ひとつあればきっと突破口はつくれる。見つけられる。だから陽くんもみんなも、まずは自分のことを大切にしてあげてね。
登山者同士は登山道ですれちがうときに挨拶をするのがマナーだと聞きます。あんな感じ。人と人とはトオリヌケ キンシ。歩んでいく人生は皆違えど、素通りできないのなら、せめて、悪意ではなくあたたかな気持ちですれちがいたい。
平穏で平凡で、幸運な人生
ウォーリーや隠れミッキーなどの「ある形」の声を聞き見つけてしまう能力を持つ高校生の〈私〉。病気でもなく役に立つわけでもない“しょぼい特技”に友人たちがどよめく中、生物の教師・葉山先生だけはそれを「共感覚」だと分析する。それをきっかけに〈私〉は生物の授業と、そして、先生に興味を持ちはじめるが――。 |
こういうことだろうな、むしろこうであってほしい、あってくれよ……!という展開にちゃんとなってくれたのが本当によかった。展開が読めるのに幸せなんてことあるんだなぁ。
共感覚なのでは?と人に言われたことがあり、共感覚についてひととおり調べたことがあるので、〈私〉には親近感がありました。私の場合は風邪をひいている人がニオイでわかるとかまれに字に強烈な色を感じるとか小説の文章に感触とかイメージがあるような気がするとか、まぁ、知人はやたらと共感覚を推してきますがたぶん本当に気のせいです。
普通の何が悪い、平凡万歳、平穏最高、である。
(P62/L11~12より引用)
平凡ってなんだろう。自分が共感覚なのかはさておき、共感覚って、特別なことなのだろうか。当の〈私〉は自分を「普通」と言い、平凡万歳、平穏最高、と語っている。彼女を見ていると、「普通」なんて存在するのだろうかなんてふと考えてしまう。普通。平凡。平穏。そういう言葉こそ、私たちがつくりだした特別(という妄想)な言葉なのかもしれない。
空蝉
おかあさんは、おそろしいバケモノにたべられてしまった――優しかった母はある日豹変し、怒鳴られ、なじられ、乱暴にされ、家の中でいじめられるようになってしまった〈僕〉。幼かった少年はイマジナリーフレンドの〈タクヤ〉を生みだすことで痛ましい日々を耐えたが、あるとき、あの日をなぞるような出来事が起き――。 |
もちろんここまでと同様の雰囲気をまとった物語としてもおもしろかったけど、単純にミステリー小説としてもよく出来ていて、二重におもしろかったです。構造は違うけれど個人的には早瀬乱『サトシ・マイナス』を思いだしました。苦労して見つけた1冊なのに手放してしまったんだよなぁ、この作品を読んだらまた読みたくなってしまった。
女性は、月経前症候群とか自律神経失調症とか、ただでさえ感情のコントロールが上手くできなくなるきっかけが多いからなぁ。もちろんそれだけで〈僕〉の母親を擁護することはできないけれど。
ネタバレになってしまうので詳しく書けないのが残念ですが、〈僕〉はこれからもあのときの恐怖や後悔をいくらかは背負って生きていくだろうし、だけどあの出来事がなければ事実が明るみに出ることもなかったわけだし、……複雑だけど、これからたとえどれだけの時間がかかってもあのときときちんとむきあって〈僕〉がいつか痛みを優しさに変えていくことができればいいと、切に願っています。
タクヤとの友情は胸熱で最高だった!やはり男の友情は至高!とか言える雰囲気じゃなくなったので自粛します。
フー・アー・ユー?
人の顔が識別できない「相貌失認」の〈僕〉。その名を知ることで暗黒の中学時代に一筋の光を見出した〈僕〉は、高校入学を機にそのことをカミングアウトし、一転毎日がびっくりするほど楽になった。ところがあろうことか人を見分けられない〈僕〉に告白をしてきた女子生徒がいて――。 |
インターネットでたまたま目にしたある症例は、怖いほど自分の状態と似ていた。あのときの気持ちは、忘れられない。画面をスクロールしながら、無意識のうちに僕は泣いていた。
(P142/L9~11より引用)
「相貌失認」という言葉を知ったときの〈僕〉の気持ち、すごくわかる。
授業中の発言、音読、発表。まわりがあたりまえにできることが自分にはどうしようもなくこわくて、陰口を叩かれるから泣きたくないのにそれでも涙が出て、きちんと準備してあるのにできなくて。嘲笑や奇異の目、あるいは責めるような目で見られるのがつらくて。新聞の広告がきっかけだったけ。「社会不安障害」という言葉を知った
なんでも「病気」にしたがるビョーキ社会だとか、自己診断は云々とか、野暮なことを言う人もいますが、自分の不安や恐怖に名前をつけること、理解することがどれほどの光になるかを知っているから、実際に受診したかどうかに関わらず名前に頼ることがあってもいいんじゃないかと思いますけどね、私は。
私はあの頃、世界中の誰もかれもに自分を理解してもらいたい、許してもらいたいと思っていたけれど、そんなにがんばらなくてよかったんだなと、このおはなしを読んだ今なら、素直にそう思えます。
座敷童子と兎と亀と
四十肩をこじらせ整体医の元へ通いだした〈私〉。同じく通院客の亀井のおばあちゃんはなにかと好意を示してくれていたのだが、肩の状態がよくなり整体へ通わなくなったうちに、彼女は他界してしまった。妻を亡くし気落ちしていた亀井のおじいちゃんだが、ある日、彼が〈私〉の元へやってきて「座敷童がいる」と言いだして――。 |
食料品を満載にしたヨタヨタ自転車に乗っているのじゃ無ければ、兎みたいにぴょんぴょんスキップしたい気分だった。
(P226/L7~8より引用)
締めのこの一文で、家族っていいなぁとあたたかい気持ちになれました。
きっと「家族」というのは血の
このあいだ支柱推命で占いをしたとき「家族との縁が薄い」と出て、たし
――そんなことを
この出口の無い、閉ざされた部屋で
前日に高熱を出したことで高校受験に失敗してしまった〈俺〉は、それを機に引きこもり、以来自分で自在にコントロールできる明晰夢を見るためのステップをこなして過ごしている。そんなある日、〈俺〉はひとりの女の子の夢を見る。唯一、話していてちょっとおもしろいと思っていた女の子。彼女が〈俺〉にささやいたささやかな呪いは、夢、だったのだろうか――。 |
「座敷童子と兎と亀と」に出てきた〈私〉こと兎野さんとその息子「次男の大介(高校
本作を最後盛大に締めるおはなしなので、多くは語るまい。他と比べるとやや異質な味わいですが、上記のようなボーナストラック的な演出
次回の加納作品候補、決定?
2作目の加納作品でしたが『カーテンコール!』と同じ題材や世界観で本書もとっておきの1冊になりました。
加納氏については以前、大学時代の友人が好きと言っていた作家、と紹介しましたが私が加納氏の名前を知ったのはダ・ヴィンチ文庫のアンソロジー『ありがと。 あのころの宝もの十二話』に収録された「モノレールねこ」がきっかけ。まだ感想を残しておく習慣がなかった頃のことなので当時の心境を覚えていませんが、今また読みなおしたら、当時気づけなかったよさを再発見できるかもしれませんね。
本書の著者紹介の欄を読んでみたら、件の「モノレールねこ」が表題作になっている短編集があるようなので、機会があったらこちらもぜひ読みたい。次の加納作品決まったな。