スーザン・ヒル『城の王』(幸田敦子・訳)を読みました。読後に思ったこと、考えたこと、感じたこと――そのすべてを言葉にして綴るのは難しく、読み返してみると抽象的で短い文章になってしまったのですが、それでも本書と本書を読んだ私の感想はなにより自分のためにここに残しておきたいと強く思ったので、短くても抽象的でも、ありのままを載せることにしました。読了直後にしたためた感想メモほとんどそのままですが読んでいただけるとうれしいです。
11歳のフーパーの屋敷に、家政婦の母親ともども同居することになった同い年の少年キングショー。その日から、フーパーの執拗ないじめが始まった。二人の暗闘に、双方の親は全く気づかない。追いつめられるキングショー。そして衝撃の結末が……。MBE勲章受章作家が描いた問題作。『僕はお城の王様だ』を改題。
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ここはぼくのうちだ、じゃまはさせない、ぼくが最初に来たんだからな、だれも来させてやるもんか。
(P26/L13~14より引用)
どこを読んでも、絶望、絶望、絶望。まるでキングショーが迷いこんだハング・ウッドの森の中だ。足元の道には多少起伏はあるけれど、見上げればどこもかしこも同じ景色。闇、闇、闇。一口、また一口と、綿を呑みこんでいくようなゆるやかな絶望と、恐怖と、閉塞感のうちに物語は終わる。
ようやく物語の出口を見つけ、命からがら言葉の森を抜けだしたとき、この読書体験に得てよかったものはあったのだろうか、と、思ってしまう。そして今一度その軌跡をふりかえる。角を折ったページがいくつか。館と森がほとんどを占めるあの小さな世界の中に、フーパーとキングショー、生まれも境遇もまったく違う2人のまだ幼い少年たちの中に、たしかに、自分と重なるものがあったのだと知る。「あなたはひとりぼっちじゃないんですよ」あとがきに記された作者の言葉を想う。
「ぼくはお城の王様だ!」
(P281/L15より引用)
単行本時のタイトルにもなったこの印象的な言葉から垣間見える高純度の独占欲、凶暴性、自尊心、剥きだしの嫌悪感、内に秘める劣等感。鬱展開だとか後味の悪い話だとか、小説においてそういうのを好む人もいるけれど、むしろフィクションの世界に幸福を望む人こそ読むべきかもしれない。他者を想える優しい人ならきっと、純粋な物語として読むだけでなく、この物語がノンフィクションの現実にどう活かされるべきなのかを、考えることができると思うから。
自分のしたことに、自分の内から出た声に、驚き、恐れおののいていた。めそめそしたり、ねちねち言ったり、なじったりをやめさせることができるなら、蹴飛ばそうがなぐろうが、なんだってする気でいた。この身に潜む凶暴なもの。それを感じて、愕然とした。
(P228/L1~4より引用)
読むのはとても苦しい小説だけど、読めてよかった。いつかきっとまた読み返すだろうという予感がある。自分の心からこの作品を風化させてはいけないと、強く強く、思うから。
余談ですが、子供たちと“城”をめぐる小説といえば辻村深月『かがみの孤城』がありますね。物語のテイストはまったく異なりますが、作者が物語を通して伝えたかったこと、その根本は両者とても似ていると思います。また、物語そのものの世界観は羽田圭介『黒冷水』とも似ているなと。あとは、抗えない感情を前にしたときの人間の本質を描くという面ではイアン・マキューアン『憂鬱な10か月』の筆致に近いものを感じました。興味がありましたら併せてぜひ。