椰月美智子『明日の食卓』を読みました。「石橋ユウ」を育てる3人の母親。そして「イシバシユウ」虐待死のニュース。ミステリー小説っぽいあらすじに惹かれて購入したのですが実際は“どこにでもある”家族小説または親子の物語です。……まぁ、だからゾッとするんですけどね。
ユウを殺したのは、私ですか?
静岡在住、専業主婦の石橋あすみ。神奈川在住、フリーライターの石橋留美子。大阪在住、シングルマザーの石橋加奈。小学3年生の「石橋ユウ」を育てるそれぞれの母親たちは、慎ましくも幸せな家庭を築いていたが、些細なことをきっかけに、その生活は崩れ始める。そんなある日、「イシバシユウ」虐待死のニュースが報道され――。ユウを殺したのは、私ですか? どこにでもある家庭の光と闇を描く衝撃作。
――文庫裏より |
最初、書店であらすじを読んだとき「石橋ユウ」という1人の少年に母親が3人いて、静岡・神奈川・大阪からそれぞれ“育てている”のか?どうやって?と疑問に思いましたが全然そういうことじゃなかった。石橋優、石橋悠宇、石橋勇。「ユウ」という名前の息子を持つ3人の母親、3組の家族の物語です。図をつくってみたので、まずはこちらをご覧ください。
ミステリー小説を紹介するテンションで画像をつくってしまいましたが家族小説です(2回目)。冒頭、ユウを殴りつける〈何者か〉視点の生々しい描写があり、読者は作中に登場するどのユウが殺されてしまったのか……と考えながら物語を追うことになります。導入が終わると3組の家庭それぞれ早々に動きがあるので読みはじめたらページを繰る手が止まりません。
3組の石橋家はまるで風船。ふわふわ。ゆらゆら。不安定に浮きあがってはたやすく引きずりおろされる。ありふれた家庭の、言ってしまえば平凡な文章なのに没入感がすごくて、正味3~4時間で結末まで駆けぬけました。1冊読むのにおおよそ6時間程度かかる私には異例のタイムです。
愛してやまず、そのためにありとあらゆる苦難に耐え、いかなる犠牲もいとわない……母性の果てにあるのは、相手を思うようにしたい、という支配欲だ。
解説より
私には兄がひとりいるので、これまでの人生で〈母と息子〉の関係性というのを間近で客観的に見てきました。母とは仲がいいつもりでいますが、やっぱり“息子”という存在は母親の中では特別なものなんだと思いますよ。兄が親元を離れ、自立し、家庭を持ったあとの家の様子を見ていると最近はより感じます。
「神」そして「信仰」という概念が生まれると、人間はまず太陽を崇め、次に女性を崇めました。その背景にあったのはきっと、種の存続につながる〈出産〉という行為に対する、どうしたってその苦痛や喜びすべてを共有することはできない男性側の畏怖の念だったのでしょう。「母親であることの恐ろしさ」「父親であることの無責任さ」解説で上野千鶴子氏が記したこの言葉は厳しいながらもなかなか言い得て妙だと思う。
墓場の子育て 甥の子守り
個人的な話をすると、本書は読むタイミングにとても恵まれました。直前に読んでいたのがニール・ゲイマン『墓場の少年 ノーボディ・オーエンズの奇妙な生活』(金原瑞人・訳)。そしてこれを読んでいた時期、ちょうど甥の面倒を見る機会がありました。私自身は出産や育児経験はおろか結婚の経験もないので、3人の母親の視点から物語を追うにあたり、現実のこの経験がかなり役立ちました。
『墓場の少年 ノーボディ・オーエンズの奇妙な生活』はこれまた奇しくも子育ての話で、真夜中に起きたある一家殺人の唯一の生き残りであるよちよち歩きの赤ん坊を「ノーボディ(誰でもない)」と名づけ、彼が迷いこんだ墓地の幽霊たちが育てることになるというファンタジー小説。
ニール・ゲイマン『墓場の少年 ノーボディ・オーエンズの奇妙な生活』(金原瑞人・訳)バタバタしている時期に読んでしまったので簡単なものになってしまったけれど、感想です。サイラスが好きすぎるのでいつかちゃんと腰を据えて再読したい。#読書#ニール・ゲイマン#墓場の少年 pic.twitter.com/52xow0R0Pe
— 麦 (@BLT691) 2019年4月19日
読後わかったのは、子供を成長させるのは必ずしも父親と母親ではない、ということ。兄弟姉妹、他人、ときに人ですらないもの――そう、たとえば幽霊とか――が与えるきっかけが成長を促すということは往々にしてある。それは本書につなげて考えることもできるのではないでしょうか。
「名づけは親の最初の暴力みたいなものだし。」
師長は続ける。
「つけられた名前で生きていかなきゃいけないんだから。」
(中脇初枝『わたしをみつけて』P73/L7~9より引用)
たとえば、こう書かれた小説がある。
ときに大人の思いもよらない行動をとる甥と接しているとき、愛情とは本来与える側の一方通行で完結するものであり、相手の反応を鑑みた損得勘定や道理を無視するから「愛」なんだろうな、と考えたものです。だけど私たち人間が皆完全にはわかりあえない他者同士である以上、愛情は、人へわたった時点でどうしても「わがまま」になる。
子供とて、突きつめれば他人。産んだ母親とは違う意思を持ち、命を持ち、人生を持っている。本書を読んでいると、そんなあたりまえの事実が生々しく克明に浮かびあがってきます。
愛情が自分本位の欲だというなら、他人と割りきった「思いやり」のほうが言葉としての距離感は遠くとも救われる家庭があるのかもしれないな、と思いました。
明日、どこかの食卓で起こりうる物語
以上、 椰月美智子『明日の食卓』 を読んだ感想です。本書を購入したのは3月中旬頃だったのですが、その後甥の面倒を見ることになり、その隙間時間に『墓場の少年 ノーボディ・オーエンズの奇妙な生活』を読んで、読みかえしてみるとまとまりのない文章ですが、時期がズレていたらこれほどには本書を俯瞰して考えることはできなかったかもしれません。それこそ留美子が嘆いたような「子どものやることなんだからもっとおおらかに、もっと大目に見てあげて、と言う人」としてたぶん「モヤモヤした」とか浅い感想をふりかざしていたでしょう。
ユウを殺したのは、私ですか?
文庫裏のあらすじに書かれたこの言葉の重さを、疑似的とはいえ子育ての一端を経験した今なら、はっきり、ずっしりと感じることができる。
「明日の食卓」というタイトルは「明日、どこかの食卓で起こりうる物語」と警鐘を鳴らしているのかもしれない。子を愛するということ。育てるということ。守るということ。……そう、これは“どこにでもある”家庭と家族のおはなし。