片岡翔『あなたの右手は蜂蜜の香り』を読みました。私は普段「好きだ!」と思った小説しか挙げないし、感想にマイナスな表現は極力使わないようにしているのですが、……悩んだけど、本書にとってこの言葉を使うことは必要なことだと思うから。だから言います。私はこの小説、嫌い。
小説としては粗削り
あたしのせいで動物園に入れられたクマの「あなた」を、必ず救い出す。どんなことをしても。雨子はそう誓った日から、親友の那智くんとも離れ、飼育員になるため邁進する。だが、それは本当に「あなた」の望むことなのか。大人になった雨子が出した結論は――。真っ直ぐに誰かを想う気持ちが交差する、切なく温かな物語。
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まずは慣例どおり小説全体の話をしますが、構成としてはね、細田守監督の映画を観ているような気持ちでした。――と括ってしまうのは語弊があるかな。細田監督の映画は「おおかみこどもの雨と雪」と「バケモノの子」を観たことがあるんですけど、私はあれどちらも2部構成だったと思っていて、その後半部分、いらないんですよね。クライマックスは「あ~、そこまで描ききっちゃうのかぁ……」という気持ちで観てしまう。そういう残念な気持ちが本書のクライマックスにもありました。読後の虚無感に対する感情処理もすごく時間がかかりました。それはまた本論に記します。
小説としての文章技術に関してはあと2点気になるところがあって、まず時間の経過が唐突だったという点。改行した次の瞬間には昨日の話をしていたり場所を移動したりするので読んでいてときどき頭が混乱しました。それから、まぁこのへんは好みですが、実在する企業やキャラクター等の名称を出しすぎかなと。たとえるなら東京ディズニーランドのむこうに浦安市の町並みがガッツリ見えてるような感じで個人的にはノイズになってしまいました。
嫌いだ、泣きたいほどに
本論は長くなりますが、まずは私が途中本を放り投げてはスマホに書きつけた主人公・雨子の嫌なところエピソードをご覧ください。
1.自分のことを棚にあげる
友達の鳩子さんが鳩へのエサやりをめぐって警察とトラブルになったと聞き、雨子が署まで駆けつけるシーン。
「誰かを本気で救いたいなら、大切なものを捨てなきゃいけないよ」
(P58/L18より引用)
警察官も父親も、鳩子さんの言葉を借りれば皆守るべきもののために鳩の優先順位を落とした結果なのに、“あなた”を本気で救いたい自分のことは棚にあげて人の言葉にばかりどうしてどうしてと突っかかる。たぶん雨子は「自分で考えなさい」という砂村さんの方針がなんにもわかってなかったんだな。
雨子、「自分で考える」というのは自分の中にしか〈自分が納得できる答え〉がないからで、自分の中にある〈自分が納得できる答え〉というのは必ずしも他人のそれとは一致しないんだよ。すべての人間がとは言わないけれど、ほとんどの人間はその難しさや悔しさを受けいれながら、世間と自分とに折りあいをつけながら生きているんだ。彼らにぶつけるきみの「どうして」は無責任だし不誠実だ。自分の掲げる信念ばかりに溺れているうちはきみだって立派にドラマの中の薄っぺらな人間と同じだよ。「この世のあらゆることは、全部思い込み」?そうだね。だけどこれもまた私の〈私が納得できる答え〉だ。
2.芯がなさすぎる
“あなた”を救うためにそれ以外の動物には一切の感情も持たずに仕事をすることについて、大切なものを捨てなければいけないという鳩子さんの言葉を思いだしながら「いつかあたしが捨てることになっても、他の誰かに託せばいいんだと気がついた」というシーン。
「託す」という言葉を使っていながら動物園が行う交配や繁殖について「カバたちは、あたしたちは次世代のために生きてるの?」とゾッとするというのはさ、ねぇ、都合がよすぎるんじゃないのと。雨子の動物に対する罪悪感そのものは否定するつもりないけれど動物に対して異なるバックグラウンドを持つ人たちにその罪悪感を押しつけるのは違うよね。
あとこれは小説の構成自体にも関わってくるけれど、そのくせ捨てる覚悟で決別してきた親友の那智くんとは偶然再会してあっさり家に通ってごはんつくってもらってまわりからは恋人だ夫婦だとからかわれたりなんかして……は心象悪いのでは。「誰かを本気で救いたいなら、大切なものを捨てなきゃいけない」に対する芯なさすぎません?
3.人間を特別な生きものだと思っている
そもそも、どれだけの土が、木が、命がとは思いつつ結局「人類の叡智に感嘆」しながら大儀を果たそうとする雨子。ふーん。
生きるというエゴのために命を犠牲にするのは突きつめればどんな動物も避けて通れないことで、それを、まるで人間だけが特別な罪深い生きものみたいに。“あなた”のために使えるものはなんだって使うし人間とか動物とか関係ないね!って啖呵切ってやってくれたほうがいっそ清々しいのに。
動物から人間を切り離して、人間を見下しながらも特別という意識があって、そのうえで常に動物側の味方でありたいって考えるのは難しいことだと思うんですけどね。
閑話休題。
“あなた”を救うための過程で雨子は彼の暮らす動物園の飼育員になるのですが、飼育員つながりで、雨子の姿は山浦サク『ケモノみち』 の主人公・晴子の初期のキャラクターとちょっと重なるんですよね。動物を中心に動いちゃってまわりの人間のことはおざなりなところとか。晴子の場合は、「動物園は会社経営だ」と言いきる園長がそばにいたからこそ〈動物園の飼育員〉という枠組みの中で自分のありかたを考えて成長することができました。まわりの人間に恵まれているという点では雨子も同じです。そこは雨子のほうがむしろ勝っていたといっていい。ある地点では晴子のようになることもきっとできた。でも、彼女は自分でこしらえた正義と償いに、一生懸命に、盲目になりすぎた、という点が晴子との大きな違いなのかな。
日本テレビの人気番組「はじめてのおつかい」を観るのが私は昔から結構好きです。子供の行動力はときに目を瞠るものがあって、子供の足では途方もなく見える坂道を歩くのも、引きずるほど大きな荷物を持ち帰るのも、そもそも泣きたくなるほど嫌なひとりのおつかいも、あるきっかけできっちり気持ちを切り替えてやり遂げてしまう。それはこれまで出し惜しみしていたというより今その場でこしらえた強大なパワーで、同じような迫力を、雨子からは感じる。
成長して経験を積むと、私たちは次第に抜け道を見つけるのが上手になって、なにかに一途であることをやめてしまいます。大量のエネルギーを使うし、大抵の人間には不可能なことなのだとあるときわかってしまうから。そんな常人のレールから外れた加減を知らない雨子の“あなた”への想いは重たく、甘く、まぶしい。それはたとえるならまさしく蜂蜜だ。ただ、蜂蜜が誰にとっても美味しいものであるとはかぎらないけれど。そして、私はこの蜂蜜が不快。とても。
今村夏子 『こちらあみ子』の解説で、町田康氏はこの世で一途に愛するというのは「世間を生きる普通の人間には無理だ」と記しています。一途に愛するためには「世間の外側にいなければならない」から。「この世に居場所がない人間でなければならない」から。雨子は世間にどうして?と投げかける。自力で世間と関わりつづける。そういう人間にとって一途であることはきっと難しい。難しいのに、苦しいとわかっていて、どれほど悩んで傷ついてもそれがあたりまえだという顔でやってのけてしまう。
私は、だから雨子にむかつく。彼女のことが嫌いだ。大嫌いだ。泣きたいほどに。叫びだしたいほどに。
だけど必要な小説
本を閉じたとき、感情をどう処理したらいいのかわからなくて、表紙をながめて、帯を読んで。「正しいとか間違っているとか、そんなのどうでもいい」と突き放されて。
心がぽうっとあたたまる、究極の愛の物語。
そんなの嘘だ。最初から最後まで、ザラザラした不快な感情しかなかった。蜂蜜だと思ってうっとりしているのは雨子だけだ。私は本書のことを豆腐だと思っている。
私は豆腐が好きじゃなくて、食べるたび、味がしないなぁ、不味いなぁと思いながら、でも栄養素的には必要なやつ!大事なやつ!と言い聞かせて食べていて。本書と豆腐はすごく似ている。好みでいえば「嫌い」だし、「嫌い」と言うのは簡単だけれど、エゴの醜さとか、動物園の存在定義とか、なにかに本当の意味で一途であることの是非とか可能性とか、それはなにかを理由にして顔を背けてはいけないテーマだから。だから、ときどき本を放り投げては感情を整理して、コントロールして、また手にとってをくりかえして。そうやってこの豆腐を食べました。 そしてそれは、ちゃんと私に必要な栄養素だったと信じています。
嫌いだ、なんて散々なことを書いてしまいましたが、私にとっては嫌いであることに意味があったし、この社会に必要な小説だと思っています。嫌いだ嫌いだと泣きながら私は本書を本棚に大事にしまって、きっといつか、今度こそ雨子を受けいれられるだろうかとまた本書を開くのでしょう。そしてこんな長話に最後までつきあってくださったあなたともぜひ、本書を、共有したいのです。