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詠坂雄二『人ノ町』を読みました。詠坂雄二という作家が私にはさっぱりわからない。どうした。めちゃくちゃおもしろかったんですけど。2年前に読んだ『インサート・コイン(ズ)』はさぁ、もっとさぁ、よくわからなかったじゃん!あらすじ読んで興味を持ったけど作者名見たとき「あー……」と言ってしまった自分を殴りに行きたい。YAH YHA YHA歌いながら。

 

 

いわゆる雰囲気ゲーのような

旅人は彷徨(さまよ)い続ける。文明が衰退し、崩れ行く世界を風に吹かれるままに。訪れた六つの町で目にした、人々の不可思議な営みは一体何を意味するのか。終わりない旅路の果てに、彼女が辿り着く、ある「禁忌」とは。数多の断片が鮮やかに収斂し、運命に導かれるようにこの世界の真実と、彼女の驚愕の正体が明らかになる。注目の鬼才による、読者の認知の枠組みをも揺さぶる異形のミステリー。

 

出典:https://www.shinchosha.co.jp/book/180161/

私は好きだけど、まぁ人によって好みがわかれる文章だろうなとは思う。しょっぱなからいきなり風来フェンライだもんなぁ。

 

近いものを探すなら太古の地上を闊歩かっぽしていたという巨大爬虫類はちゅうるいの骨格だろうか。そんな姿が独立し、ゆっくり脚部を動かしているのだ。からだは生物にあるまじき直線の集まりから成り、脚の数も多すぎた。挙動も生物とはかけ離れている。また頭部らしき部分も見当たらない。人工物に違いないのだが、その目的が察しがたい。それぞれ動きがばらばらで、姿形に統一感もないのである。

 

(P10/L4~8より引用)

 

読んでこれ想像できる?私は脳に理系の領域がないのでまったく想像できない。

 

あらすじには「異形のミステリー」とありますが、体感的には枠物語的なほぼディストピアSF。一応町ごとにミステリーとしての事件は起こりますが、作品のもっとも重要な要素は旅人が語るこの部分でしょう。

 

世界各地を巡っても、具体的に何があったか語る記録がないのです。科学技術といった客観的心理の足跡は残っていても、歴史のような物語については皆無。

 

(P235/L1~3より引用)

 

設定は時雨沢恵一『キノの旅』っぽいけど、そもそも私PS2のノベルゲームでしかキノのこと知らないし、「風ノ旅ビト」か「Everybody’s Gone to the Rapture -幸福な消失-」に近いといったほうがいいかな。これ最近プレイしたけどこわすぎてだめ。人間のことは基本的にこわいけど世界から完全消失したらそっちのほうがめちゃくちゃこわいからみんな絶対に消えないでそれなりに私と関わって生きて!って思った。

 

話を戻して、情報が過不足ということはないし、物語としても1編1編の筋道は立っています。ただ、序盤からはっきり「読者」という存在が書かれていることからも察せられるように読者が積極的に行間を読むことが期待された作品なんだろうなと。私はそういう作品好きだけどなぁ。

 

 

 

 

この町に なにがあった・・・・・・のか

風ノ町

その町には常に風が吹いていた。旅人は砂浜で「風来フェンライ」と呼ばれる生きものめいた工学作品あるいは芸術作品を見る。その後、食堂で食事をしていた旅人は町の警官や電力屋の男たちから先週この町で起きたとある死亡事故の話を聞く。事故以降、さらに行方不明者が3人出ているというが――。

ズルいな、と思う。

歴史、文化、宗教、経験……どんな言葉でもいいけど、ひとつ芯を持った人間の前で人間はただ無力だもの。

 

たとえば日本列島に台風が近づいていると知ったとき(台風の多い季節になってきましたね)、この町の人々と同じく、私たちの中にも備える人たち、恐れる人たち、利用する・利用できればいいと思っている人たち、あるいはそのいずれかではない人たちなどいるわけで。

 

部外者として共同体を巡り続けられるのは、さまざまな差異を埋めない、、、、努力を怠らないからだ。

 

(P41/L9~10より引用)

 

最近思うんだけど、人間が人間であるための〈人間らしさ〉の最たる要素はエゴイズムなのかもしれないね、と。主人公が旅人であることをはじめ、警官、技術者、老人等々、すべての配役に意味がある物語だったなと読了後ふりかえって思いました。

 

主題としては早見和真『イノセント・デイズ』、ゲームだとFF10に近しいものを感じました。突きつめればエゴイズムからなる人間の差異とは、またそこにあるあらゆる“無力”とは、まさしく風のようにどうすることもできないある種の自然現象なのかもしれない。やりきれない話だ。ズルいなと思う。だけど、読んで終わり、それだけではいけない話だとも思う。

 

 

 

 

犬ノ町

その町には犬があふれていた。“最初の犬”の町を訪れた旅人は、高地環境のために倒れていたところを1匹の老犬に助けられる。次に目が覚めると、そこは人を避け犬たちとともに暮らす老人の家だった。老人は町の伝承を語ったあと、興味があるなら犬 について研究している町の学者に聞くといいと言われ――。

犬と、研究の話。ニワトリが先か卵が先か。大学在学中、教授に大学院を勧められたこともあったけど、必ず答えにたどりつかなければいけない研究者というのは相当な体力と精神力が必要で、自分には苦しい道だったかもしれないなと改めて。そういえば、なにかに従事する者をあるときは「〇〇の犬」とも表現するね。

 

「友情、献身、忠誠――犬の物語によく用いられる主題です。しかしそれらはいずれも人の創作物。実在するのではなく、あるべきといった文脈で語られてきたものでしょう。有無を論じるにせよ、通用させるのは人のあいだに留めておくべきで、犬にまで用いるのは擬人法でしかない」

 

(P62/L9~12より引用)

 

「擬人化」というのが物語のひとつのキーワードだけど、日本人は殊に、古来より擬人化の好きな民族だったから作中刺さる言葉は多いかもしれない。あとは、擬人化の精神はこの頃の思いこみや決めつけによる人々の過剰な正義感にも関わりがあるのかもなって私は思いました。しかしながら、以前『私たち異者は』の感想に書いた「意味のないことに慣れていない」という話にもつながるけど、意味のないことに意味を夢想する〈人間らしさ〉に惹かれもするわけで。

 

学問つながりで、絵空ハル『神楽坂愛里の実験ノート』の第1章の話を思いだしました。学者の執着と苦悩もわかる。老人の言い分もわかる。旅人がこの一件でなにを感じたか察することもできる。だからとても難しくて、苦しい。

 

 

 

 

日ノ町

その町は太陽のため成立していた。町の人々には「玉座」あるいは「祭祀場」と伝えられている、白く平面で巨大な立方体の、一見して用途不明の建物。これらが太陽の運行に起因して建てられたものならば……町がねむりについた頃、旅人はもっとも太陽と関わりの薄い北の「祭祀場」に足を踏みいれるが――。

建物の外観についてはSCP-1287を思いだしました。話としては全然違うんだけどね。私もじつのところ状況をばっちりは理解できていないんですけど、こっちは、まぁ、「伝えて、遺していく」ということ、そこにある善悪、の話です。

 

 

理性を信じながら、複雑な真実より根源的な神話のほうが長持ちすると考えたのだ。

 

(P115/L2~3より引用)

 

死後、後世になってから正しく評価されるというのは文学をはじめ芸術の世界にもよくある話。インターネットの大海に自分なりの表現を流している一個人として、私は、「未来の何者かに託す」というこの聖職者たちをどう思っているんだろう。投稿当時はうんともすんともいわなかった記事が知らないうちに人気記事になっていたりすると、このブログは現在に発信しているというよりは未来へ残していく文章なのかなぁと思ったりはしますけどね。……なんの話?

 

 

 

北ノ町

その町は暗い色彩に満ちていた。極光を見るためにやってきた旅人は数日町に留まるあいだの仕事として、氷河に入り掘削を行う〈氷穴掘り〉をすることに。同じくここに滞在し、氷河の変化を観測するかたわら氷穴掘りもしているという青年にまずはここからと勧められた氷穴で、旅人はいよいよ氷穴掘りを開始するが――。

ここにきてラストはまさかの展開。ただまぁ、それ以外はおおかた予想できる内容だったかな。町の薄暗い雰囲気や氷河や氷穴の危なくも美しい光景、ラストシーンなどを想像するのは幻想的ではあったけど、物語そのものは抽象的といいますか、これといって感想がない。これまでの物語の中でもっとも穏やかでない状況になるはずなのに、旅人も、読者である私も、いやに淡々としている。それが異様ではあるけれど。

 

北のほうというと、網走刑務所とかベーリング海のカニ漁とか私はどうも危険・過酷なものをつい想像してしまうのですが、直前の「日ノ町」で北というのは太陽との関係が薄いという話がありましたね。なるほど北という方角の「暗い色彩」のイメージはそういうところに起因するのかもしれない。

 

 

 

石ノ町

その町に住人はいなかった。医師と商人とともに「石の町」と呼ばれる廃墟群を訪れた旅人。そこには、かつて不老の人々が住んでいたという奇妙な噂と、いたるところに点在する誰が積んだかわからない石積みがあった。目的地は同じだが目的が違った三人は石の町に着いたあとそれぞれ別行動をとるが――。

!ネタバレ注意!

【 】内は既読を前提とした重要な考察のため白字表記にしました。

 

先の「北ノ町」は書き下ろしとのことだけど、どうしてあの話があのタイミングで挿入されたのか、その疑問がここで晴れた感じ。

 

「石ノ町」の話を読むことで、旅人が一貫して「旅人」または「彼女」と表記されていた理由のいくつかの可能性――すなわち、【北の町を旅した旅人と石の町を旅した旅人は別人・・である可能性】、また、起承転結とは出来事の整理法でありこの時間軸を操作することが物語であるという高崎卓馬『表現の技術 グッとくる映像にはルールがある』の文章論を持ちだすなら【同一人物ではあるが「石ノ町」で明かされる事実の強調として作者が時間軸を操作したという可能性】も考えられます。私は前者の可能性を推したい。読めばわかるけど、やっぱり【町ごとに変わる旅人の印象】は引っかかりますよ。

 

町の物語としては「日ノ町」と対になっている気がしますね。 目的地は同じだったけれど目的が違った医師・商人・旅人に象徴されるように、同じ理想を持っていても人によって手段は違ってくる。「石」と「意思」が奇しくも同じ読みを持つとは、うーん、なんと皮肉なことか。

 

 

 

 

王ノ町

その町は川を挟み栄えていた。巨大な堰堤を有する町には人々の衝突をおさめ、罪人を裁き、法を吟味する王がいる。「川の町」でも「橋の町」でもなく「王の町」と呼ばれるこの町を訪れた旅人は、白濁した瞳を〈旅神の信者〉と捉えられ、王と面会することに。旅人に王が助言を求めたこととは――。

最終話に到達して、旅人の正体やこの世界の真実を知ったとき、私は堰堤は破壊するべきだと思ったんだよね。現段階でのこの世界のありように共感したから。だけど旅人の個人的な気持ちを考えたとき、彼女があの場で下した決断はもっとも合理的で。“正解”とはなんだろうと、考えてしまう話だったな。つくづく人間は業が深い生きものだなと。

 

人間の業の深さは、人間が他の動物とは一線を画す知能を得て個を強く認識し、文明の発達が種としてのつながりを薄めていったことに起因するのかな、とも。

 

個を極めて完全に種としてのつながりを捨てるか、あるいは、個を捨ててかつてのように種としての調和を重んじるか。どちらが人間にとって、世界にとって、“平和”を得られるのか。極論ではあるけれど気にはなるところ。

 

 

 

小説に物語以上のことを求める人に

先の「石ノ町」の感想でも扱った高崎卓馬『表現の技術 グッとくる映像にはルールがある』の中に、映像は空間で、立体的に考えるべきだという一節があります。世界には奥行きがあり、この奥行きを利用して「観客のみが知っていること」をつくるのは人の心を惹きつける物語のつくりかたの基本であると。小説において「行間を読む」というのはつまりそういうことで、『人ノ町』に惹かれる人はそれができる人、なのかもしれません。

 

昔むかし、のもっと「昔」を想像するのは好きですか?

めでたしめでたし、のもっと先にある「めでたし」を想像するのは好きですか?

 

難しい、よくわからない、と突っぱねるのは簡単です。だけどそれは百も承知で、小説に物語以上のことを求められる人に、私は、どうしても彼女と彼女の旅路と彼女が生きる世界を託したい。お気に入りの1冊です。気になったらぜひ。

 

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Writer
佐々木 麦 Sasaki Mugi
小説を書いたり、読んだ小説についてあれこれ考察をするのが趣味です。雑食のつもりですが、ユニークな設定やしっかりとテーマがある小説に惹かれがち。小説の他に哲学、心理学、美術、異形や神話などの学術本も読みます。