感じるな、考えろ。-『動物たちのまーまー』感想
2020年3月25日
!ネタバレ注意!
本記事は一條次郎『動物たちのまーまー』に関するネタバレを含む可能性があるため、作品を読了している、または作品のネタバレを承諾する場合のみ閲覧することを推奨します。以上のことに同意したうえでお楽しみください。 |
最近Huluで「前略、西東さん」観てるんだけど、こないだたまたまZAZYのネタを見たんですよ。そのときちょうど一條次郎『動物たちのまーまー』を読んでたもんで、なんか、一條作品の不条理ってもうまんまカルロスだなって思った。
前作『レプリカたちの夜』を読んだ人は薄々勘づいていると思いますが、はい、お察しのとおり今作も相変わらず解説に「まことに一條次郎作品は内容を紹介しにくい」と書かれる始末。とりあえず設定から考察やアウトプットをまとめましたので、参考にするもよし、読後感を共有するもよし、懲りずにまた一條次郎の投げっぱなしジャーマンを喰らってしまった人はピザ頼んだりトウモロコシ齧ったりカルロスをトントンしながらゆっくりしていってね!
テノリネコ
「いいか、社長がほんとうにこいつを愛しているのなら、こいつがどんな姿になってもかわいいはずだ。そうでなければ愛しているとはいえない」
(P36/L16~P37/L1より引用)
書名「まーまー」だっていってるのに1編目から騒音まみれなの草。ユージーンの言葉が刺さるエンディングでした。
単純に人間が太刀打ちできない自然の驚異の話ともとれるし、個人的には、〈変化〉の話ともとれるかなと。新入りや子供、未熟なうちは動物でも人間でも誰でもかわいい。だけど四方八方からいろんな物事を吸収して成長し、頭角をあらわしはじめると、ちやほやしていた先輩や大人たちからなぜかヒンシュクを買って煙たがられる。現状維持のほうがじつはずっと手間がかかるし、良くも悪くも、変化は自然の摂理なんですけどね。出る杭を悪としている人間は坊主憎けりゃなんとやらで、もう、相手のなにもかも気になっちゃうんでしょうね。
稲垣吾郎主演だったと思うけど、昔「世にも奇妙な物語」で放送されたやつで、集中するのにまわりの騒音を気にするあまり最終的には自分の心臓突き刺しちゃうって話があったんだけど、音に敏感になるあまり騒音が騒音を呼んできて最終的に「どーすればいいんだ……」って心境は似てるのかなと思いました。
アンラクギョ
宮沢賢治「毒もみのすきな署長さん」を思いだしました。違法なのはわかってる、けど好きなものは好き!というマインドは店長・助役・ネコビトの全員に共通しているし。
あの状況で「逃げる前に代金をいただけます?」なんて訊ける豪胆さがあればあんなめちゃくちゃなエンディングをもってしても案外巨大なアンラクギョ→1匹で相当なピザがつくれる!って思考に行きついてまた元通りな気もするんですけどね。中毒者をつくるのは簡単だし。なにより「毒もみのすきな署長さん」の系譜を踏んでいるとしたらやっぱり最後は「こんどは、地獄で毒もみをやるかな」でなくっちゃ。
仮にアンラクギョが「安楽魚」だった場合、「安楽」というのは「心身の苦痛や生活の苦労がなく、楽々としていること。また、そのさま」という意味。これは1枚で23万円稼げる違法なピザや女が手をたたくだけで捕れるアンラクギョのチョロさ、驚愕や苦痛の声をあげる暇もなく丸呑みされたネコビトの末路(=安楽死)を指しているのかもな、と。
初出を確認すると、この7ヶ月後に先の「テノリネコ」が発表されているんですよね。もし両者が世界観を共有しているとしたら、テノリネコが人間ほどの大きさまで育った段階で里見八犬伝よろしく「町外れの化学工場の事故」を起因とするなんらかの方法で人間との子を成してネコビトが誕生した、と考えるのもありかも。
まさかこの感想がフラグになるなんて……。
貝殻プールでまちあわせ
ラッコという生き物は、あれは宇宙から来た生命体なのだろうか。ずっと空からのむかえを待っていて、それでいつもあおむけになっているのだろうか。
(P139/L8~9より引用)
まず、この発想がいいよね。付箋貼っちゃった。常識を疑えというのは哲学者のやりかただけど、前作のうみみずとか「ヘルメット・オブ・アイアン」にデカルトの「我思う、故に我あり」を彷彿とさせる文章があったりするあたり作者自身そのあたり造詣が深いんでしょうか。
「少しのあいださ。あと十日ぐらいかな」
「もっと早く出ていってもらえないかい?」
(P122/L9~10より引用)
私はこのおはなし、「侵入者」という言葉をすごく意識しました。ラッコを主軸に考えればもちろんプールに侵入しているって意味でもあるし、本当に「宇宙から来た生命体」だった場合も地球外からの侵入者になるわけだけど、このラッコが普通に動物だった場合、彼らの暮らす自然に侵入しているのは人間のほうだっていう。ラッコは少なくともあと10日で帰ると言ってくれているのに、これが立場逆だったら、人間はあと何日、いや、何年侵略をつづけるつもりなんだろう。
あと、2枚貝のプールは前に読んだWeb漫画を彷彿とさせた。
採って捕って盗りまくれ
劇には熊や鹿、山猫やねずみなどがあたりまえのように出てきた。象やライオンが出てくるものもある。なかには狸と蜘蛛となめくじという奇妙で風変りな組みあわせが登場する演目もあるらしい。いったいなんの芝居をやっているのかはしらない。
(P149/L1~4より引用)
まさか「アンラクギョ」の感想で触れた宮沢賢治がフラグになるとは思わなかった。劇団ハムスター、絶対宮沢賢治の作品メインで舞台やってるよね。狸と蜘蛛となめくじの取りあわせなんて他に聞いたことないし、「蜘蛛となめくじと狸」も同じくらいブラック不条理ユーモアだし。
だがそれは錯覚だった。
(P171/L4より引用)
読んでるあいだは物語に没頭してるからつい忘れちゃうんだけど、私たちが小説で読む動物って、あくまで作家が生みだした「人間が想像する動物」なんだよね。人間と動物、おたがいにっこりほほえんで仲よくしましょうなんてことは本能に立ち返ったら基本的にはないわけで。
「貝殻プールでまちあわせ」の感想にも書いたけど、熊が〈わたし〉のトウモロコシを盗った以前にトウモロコシを採るのも、それを盗るのも、めぐりめぐって熊を捕るのも人間で、全部の土台になる自然を採って獲って盗りまくってるのは結局人間のほうなんだよなぁ。
それにしても、熊と対峙して狼狽とはこれいかに。
まぼろしの地球音楽
ヘルメット・オブ・アイアン
初出はどちらも2019年で間隔も2ヶ月しか空いていないし、この2作品は対で考えてもいいかも。そもそもどっちも個々で読むのは高難易度すぎるし。私は芥川龍之介の「杜子春」読んだことないので(具体的なつながりについては解説を読もう!)的を射た感想は書けないけど、まぁ、両者は「世界」においての「居場所」の話なのかなと。
おれたちの音楽は到底うけいれられないという予感があった。いまさら帰っても居場所はないだろう。いや、いまおもえばもともと居場所などなかったのだ。だがどこへ行けばいいのか。おれたちはまるでわからなかった――。
(P212/L16~P213/L1~2より引用)
「そこが問題なんだ。なにがあって、なにがないのか、そのどれもおれには決めることができない。そういった意味では夢も現実も似たようなもの。そのなかにいる限りは、その世界に従わなければいけないんだから」
(P254/L4~6より引用)
「まぼろしの地球音楽」の主人公〈おれ〉は嘘か真か自称・アーティストで、アーティストとは聴衆の望むとおりに自分を演出する仕事でもあります。彼らの演じる一時の非日常は聴衆の“夢”でありアーティストとしての彼らの“居場所”ともいえる。で、“夢”の中に閉じこめられて無理やりにでも“居場所”を見つけ腰を落ちつかせるしかない。だけどじつのところ夢も現実も関係ないよね?っていうのが「ヘルメット・オブ・アイアン」の結末……、と私は解釈してる。
不条理な世界で自分の居場所を見つけろ、というメッセージ性は津原泰水の『ヒッキーヒッキーシェイク』に通じるところがあるかなって個人的には思いました。アーティストやVR空間に共通する自己演出の要素は自分を騙しつづけろという『ヒッキーヒッキーシェイク』のコンセプトにもつながるし。
ベイシー伯爵のキラー入れ歯
世界観完全に「シェアハウス・ウィズ・バンパイア」だよね。
ベイシー伯爵がバンパイアだったからこその希望もあるし、だけど全体で見たら間違いなく絶望で、その原因をつくったのは伯爵だし、これを喜劇ととるか悲劇ととるかはニワトリが先か卵が先かみたいな話になっちゃうんだけど。極論、人間が一斉に人間であることをやめればこの人間社会で生きにくさを感じる人たちってのはきっといなくなるわけで。そういう意味では、ゾンビやバンパイアって平等社会なのかなとは思った。
ところで、ドラキュラードは「動物たち」の中に括っていいの?
以上、一條次郎『動物たちのまーまー』の設定をこねてこねてなんとかそれなりの形にした、感想の断片集でした。
『レプリカたちの夜』は物語が壊滅的ながら哲学的な要素があってそこがよかったんだけど、今作はいよいよわかりやすい哲学的要素もなくなって、普通に壊滅的だった!けど誤解しないでほしいのは、この壊滅的な物語から哲学や風刺、文学、希望など悪戦苦闘しながらたぐりよせるひとときがまた、じつに有意義な読書体験だということです。
「考えるな、感じろ」じゃもったいない。
『動物たちのまーまー』を、ひたすらに考えろ。