電子書籍でさらりと読んで流す予定だったのですが、無理でした。泣くほど好きだった。タイトルやあらすじから察せられるように本や物語を愛する人たちのための小説だとはもちろん思うのですが、逆に、物語やあるいは読書そのものに意義を見出せないという人たちへのトリガーにもなるような言葉がふんだんに盛りこまれています。
個人的に印象に残っているのは、「その背に指を伸ばして」の主人公・あおちゃんの「あたし、結末がはっきりしないお話って苦手なんだと思う」という言葉。
相沢さんの作品は直近だと他に『雨の降る日は学校に行かない』とか読んでいて、そのときも、主人公が今まさに口を開く瞬間で終わるという物語の構成が結構印象に残っていて。そう、「結末がはっきりしないお話」とはまさしく相沢さん自身の作品・作風すらも包含しているような言葉なんですよね。
これについて、しおり先生=作者である相沢さんは次のように答えます。
「だって、そこにどんな結末を描くのかは読み手の自由なのよ。物語がどう終わるのか、そのあとどうなったのか、すべて読み手の価値観に委ねられていて、わたしたちの心を試しているような感じがするでしょう?」
「物語の主人公を幸せにできるかどうかは、わたしたちの心しだい。それはつまり、わたしたち自身を幸せにできるかどうかも、わたしたちしだいってこと」
「楽観主義者はドーナツを見て、悲観主義者はその穴を見る」とオスカー・ワイルドは言いました。ドーナツといえばドーナツの穴をどうやって食べるか?という議論も有名ですが、これはそもそも穴が「ドーナツの穴」であることを認識していなくてははじまりません。一方、悲観主義者が見る穴とは正真正銘の欠陥や虚無であって。
であれば、選択肢が楽観と悲観の2つであったとき、やはり自ら進んで前者を選びとるほうがはるかにお得だよなぁ、と思うなど。
そして、〈人が死なないミステリ〉が好きだというしおり先生。
「面白いよう。先生の好きな物語に出てくる人たちはね、日常に起きるどんな些細なことにも眼を光らせて、不思議なことを見つけては、あれはどうしてだろう、なんでなんだろうって、たくさん考えようとするの。だからこそ、身近な誰かが困っていたり、苦しんでいるときに、いち早く気づくことができるようになるのね。でも、これって物語の中に限ったことじゃなくて、わたしたちの世界においても大切な視点だと思わない? 先生が好きな物語は、その尊さを教えてくれるの」
私かな?
私が書いたのかと思った。なぜ今〈人が死なないミステリ〉はこれほどまで隆盛なのか。なぜ自分がそうした“日常”に惹かれるのか。なぜ”日常”から読者の「どうしてだろう」「なんでだろう」を引きだすような小説が書きたいとさえ思っているのか。――全部に説明のつく、はっとなるような言葉でした。魂に刻んでおこうと思う。ざくっ。
というわけで、電子書籍で読んだ相沢沙呼『教室に並んだ背表紙』の感想でした。
相沢さんの作品はいつもきれいすぎる、繊細すぎるといったきらいがありますが、これは言語化が巧くまた言語化することを決して怠らないからだとも言い換えられるのかもしれません。となると、こうした作風や文章というのは書くと自然にこうなるというより、自分自身ある程度課題や問題点は自覚しながらそれでも“あえて”このスタイルを貫いているのかもしれませんね。
それは信念のなせるわざであり、そういうところが、私を強烈に惹きつける魅力でもあります。