月のケーキは甘くない!-『月のケーキ』感想
2021年2月17日
奇妙な味わいという宣伝文句につられて手にとりましたが、いやぁ、なんの因果か直近で篠田知和基『世界植物神話』なんぞ読んでいたのでハシバミや金曜日がなにを意味するかとか、思いのほかわかるわかる。タイトルは「月のケーキ」だけど含意たっぷりでなかなか甘くなかった。感想ってかもうほとんど考察です。あたりまえのようにネタバレします。
月のケーキ
月の満ち欠けは周期的なものなので、時計、つまり時間とイメージが重なりますね。殻や尾が渦を巻いているカタツムリやタツノオトシゴも同様。12匹必要というのもやっぱり文字盤を想起させます。
だが、材料を混ぜるスプーンは、ハシバミの木で作ったものじゃなきゃいけないんだ。ほかのものじゃだめだよ。(中略)ぴったり九十九回。それ以上多くても少なくてもだめだ。
(P28/L15~P29/L1より引用)
ハシバミはケルト文化圏では神聖な木で、実が成るまでに9年かかるのでよく数字の9に関連づけられるようです。99回というのはこのハシバミを使って混ぜるからなのでしょう。また魔術とも親和性が高く、ヘルメスが用いた魔法の杖・カドゥケウスや原作でシンデレラの願いを叶えたのも母の墓に植えられたハシバミの木だったそうですよ。
さて、月のケーキは食べると時計の針を戻せるというのですが、もし本当に時間が戻るなら1世代に1回きりしかつくれないし食べられないって理論破綻しません?だって時間が戻れば月のケーキをつくる前の時間に戻るので、ちょっと抽象的な言いかたをしますが、世界の管理者に月のケーキをつくったという事象が記録されていなければこの世代は2回目をつくることが可能ですよね?記録されるのかな?
まぁ、つまりこの時点でミセス・リーの言うことは疑えるよねという話なのですが、このあたり親殺しのパラドクスを思わせるなぁと個人的には思ったのでした。同じ理屈なのかはわからん。今わりとフィーリングで言った。
「いいえ、ちがいます。気が変わったんです。やってしまったことはやってしまったことだから。それでも、人生は進んでいく。そうじゃなきゃ、まるでただのゲームだもの。だけど、これはゲームじゃない」
(P34/L6~8より引用)
これは完全に蛇足だけど、同じように「蘇生もコンティニューも選べない僕のシナリオ/「つづきから」それだけ/リレイズ」と歌っているのがBOYS END SWING GIRLの「リレイズ」。最高なのでみんなも聴こう!
バームキンがいちばん!
アンナは、だれかが道に落とした二枚のペニー硬貨をじっと見たり、スズメがバスの乗車券をくわえて飛んでいくのを見送ったり、男の人が手押し車に長靴をのせて押していくのをながめたりするのが好きだったのです。そして、いろいろな思いを巡らせました。スズメはバスに乗りにいくところだったのかな、それとも降りたところだったのかな? ペニー硬貨を落としたのはどんな人だろう? 男の人の長靴は、手押し車にのせてもらわなきゃならないくらい疲れてたの?
(P41/L11~ P42/L5より引用)
良き。とくに引用の最後良き良きの良き。アンナの柔軟な発想が羨ましい。自分の子供時代は、なんていうか、ここにないものを現実に投影して“演じる”ような空想ばかりだったので。
表面だけ見ればマイナスイオンとか水素水のようなインチキ科学を子供にもわかりやすくしたような話ですね。少なくとも父親はそのように解釈したみたいです。あるいは「いろんな種類がいるの」「いろんな形のがいるのよ」、いいものか悪いものかという問いには「どこにいるかによるかな」など、アンナの説明を聞く感じ個人的には〈幸せ〉の話なのかなと。
幸せってある程度共通概念はあるけど結局「時と場合による」に尽きるじゃないですか。バームキンを善人にも悪人にもするのはあくまで今現在の私で、これはよくある性格診断テストのチャートなんかにもいえる気がします。あれって大人になってからよくよく考えると結局そのときによるわってなってだいたい「どちらともいえない」に○つけがち。
羽根のしおり
「二度と――」スーがあえぎながら言うのが聞こえた。「ああ、もう二度と、ぜったいに――」
(P68/L2より引用)
スーのこの言葉からまず考えられるのは、ティムと同じ歳の子供なのでまぁ純粋にこわがっているだけという線。だけど、これだと単に不思議な話かあるいはちょっとこわい話程度で片づいてしまって物語が薄味になるから好みじゃない。
かといって「二度と」ってところに着目するとあまり良いイメージには結びつかなくて、たとえばウィケンズが教えた墓のまわりを7周するってこの儀式とは本当はティムの求めていた〈死んでしまった人にさようならを言える〉方法じゃなかった説――死者を死者以上の“なにか”にしてしまう方法だった、とかが考えられそうだけど、うーんこれもあまりに救いがなさすぎるから嫌だな。
で、いろいろ考えた結果「死んだ人にさようならを言う」という文脈自体は間違っていなくて、つまり、死者=現実に留まる魂を天界へ送りだしてしまう方法だった、と解釈することにしました。この場合スーが言いかけた「もう二度と、ぜったいに」のあとには「(ティムは母親に)会えなくなる」がつづいたのだと思われます。
炎の剣を持った天使に、うちへ帰れと命じられたみたいに。
(P68/L1より引用)
天使というキーワードは彼女が丘を駆けおりていくときの描写にも用いられてますしね。これなら、ここの場面は天使となったティムの母親が魔女の血筋(推測)から息子を守るために追い払ったとも考えられそうです。
後づけで「本にしおりをはさんでおいたから」とティムへの伝言が聞こえたというのは、そもそもお姉ちゃんが(おそらく母を独占したいという子供特有の感情から)あえて黙っていたという線もありうるけど、天使になってしまったのならその羽を今はさんできたよというニュアンスにも解釈できるのかなと。
姉のハンナには直接言葉(声)や共にすごした最期の時間といった形にならない確かなものを、そして弟のティムには天使の羽という不確かだけれど形になるものを、それぞれ遺してこれでトントン。二人を遺して死んでしまった彼女にそれができたのだと考えればこの顛末もそう悪いものじゃなかったのかもしれない。客観的に見ればね。まぁ、母親の死をどう受けとめるかは遺された姉弟が決めるものではあるけど。
オユをかけよう!
一方、マンデーおばあちゃんが孫のポールに遺したものはオウムのフォッズ。それからティーバッグが1個におそろしく汚れたシャツ、インスタントスープ(トマト味)の素1袋、マジックフラワー、そして〈こおりんしゃ〉でした。トリッキーすぎる。
もちろんティーバッグやインスタントスープの素というのは元来お湯をかけるものですが、よくよく考えれば、これって亡き祖母が遺したいわば形見なわけです。センスは微妙だけど(これ訳者あとがきを読むと最高じゃんって思えるんだよな)、それでも腐ろうが無駄にしようが、残しておきたくなるのが人の性というもの。ところがポールは、フォッズが「オユをかけよう!」といえば「そうだね」と二つ返事でお湯をかけ、それがティーバッグやスープなら飲むし、シャツなら洗って着る。ここが、この話の最高にチャーミングなところ。
これは遺品に限った話ではなく、個々人のどんな大切なものにも言えることですが、モノというのはやっぱり保管するものではなく使うものなのだと思います。
氷にお湯をかけたらどうなるでしょう。溶けますね。だけどそれは「氷が消えた」のではなく「氷が水になった」だけのことで、ポールが次々お湯をかけていったモノたちも同じようにただ「思い出」に形を変えただけなのでしょう。そして彼のような愛ある執着のなさを、私も、持っていたいと思うのです。
緑のアーチ
〈ぼく〉が夢の中で目指していた場所というのはおそらく天国的な、まぁ死者の世界だと思うんだけど、だとするとそこへ行きたがっていた〈ぼく〉というのはやっぱりどこか無意識に死の欲求みたいなのがあって、そこに図らずも兄・ブランが割込みしてしまったっていう、死に対する理不尽とかやるせなみたいなものがテーマだったのかな。
あんまり個人的な感想が練れなかったので代わりに死と蜂の因果関係を調べてみたんだけど、「蜂群崩壊症候群」っていう、あたり一帯のミツバチがごっそり失踪する原因不明の現象が世界各地で報告されてるんだって。あとは08年公開の米映画『ハプニング』に「もし、地球の表面からミツバチが消え去ったら、人間は4年も生きてはいけないでしょう」という言葉があるらしいんだけど、これは都市伝説の範疇。
訳者あとがきによれば作者のエイキンが亡くなったのは2004年で、つまり本作は『ハプニング』より先に書かれた話になると思うんだけど、なんにせよ蜂が少なくともこの話では「死」の象徴だったとして兄の事故を経てふたたび庭に戻ってきたということは、〈ぼく〉がまとっていた死の気配は払拭されて「お兄ちゃんのぶんも」とある程度活力は出てきた、って解釈でいいのかな。
本当のうちへ帰る夢、と言ってもいいだろう。
(P95/L5より引用)
もちろん誰にだって死は平等に、突然やってくるのだけど、遺された〈ぼく〉はせめてできるだけ長く幸せであってほしいと願ってしまう。
ドラゴンのたまごをかえしたら
ドラゴンだけど客寄せパンダというか、町の人々にとってグリアが完全にモノ化してるところが個人的には今村夏子の『あひる』を彷彿とさせてこの話はゾッとするんだよなぁ。作者の意図はわからないけれど、
というわけで、もしあなたがやさしいドラゴンなら、どこにいけばいいのか、わかりますよね?
(P112/L5より引用)
という最後の1行が最高に人間視点のエゴでしかなくて。テレビ番組の犬と一緒に旅をするみたいなコーナーで代替わりしたときもにょるのってたぶんこれだわ。原因判明した。なんか、「代わりとかいるんだ」って気持ちになるんだな。その子だから成立したコーナーの色とか空気感とか、あるのにねって。
あとはなんか、奈良公園の鹿とか思いだします。奈良公園の鹿って観光客が面白半分であげる鹿せんべいに依存しすぎてて、世相的に例年の観光客が見込めない今すごい痩せ細ってるみたいな話聞きかじったんですけど、人間の都合で野生の動物たちの生態を変えてしまうのもある種虐待なのかな……と思うなど。まぁ、動物との共生については考えだしたらじゃあ動物園はとかペットはとかキリがないわけだけど。
怒りの木
「ああ、そうとも! おまえは狩りをするのだ! 旅をするのさ! 旅をするのだ、いつまでも、いつまでも、いつまでも、いつまでも……」
(P121/L7~8より引用)
このあたりはボッカチオの『ナスタジオ・デリ・オネスティの物語』を連想してしまいます。
ナスタジオという男が森で騎士に追われる女を見つけ、助けようとすると、曰くその女は騎士の愛を冷たくしりぞけた罰として毎週金曜日にその森で馬に乗った騎士に追いたてられ、彼のけしかけた犬に倒されると剣で背中を刺され心臓を犬に食わせられる、というちょっとなにを言っているのかわからない業罰を課されているというのです。しかも無限ループ。たとえ相手に気がなくとも、人の気持ちをぞんざいに扱ってはだめだ、という話。
あるいは狩りに夢中だった騎士が「それほどまでに狩りをしたければ未来永劫に狩りをするがいい」と隠者に呪われ、その後、幻の獲物を追って空中を駆けまわる――みたいな〈呪われた狩り〉の話がヨーロッパの森には展開されるらしいのですが、こういう伝承がベースにあるんですかね。
ただ、エイキンの「怒りの木」の趣旨はジョニーの「(責められるのも責めるのも)つらくはないんですか?」という言葉に集約されていると思います。苦しみの解消というのは双方が分かちあって時に身を委ねるしか方法がない。それができれば、別のところできっと新たな希望が生まれるだろう、と。
自然の、植物の強さを侮ってはいけない。森をこの町の人々の積み重ねてきた歴史の中にある希望に置き換えると、これはつまり希望の力を侮ってはいけない、という意味にもなる。
ふしぎの牧場
ティターニアというのはシェイクスピアの戯曲『夏の夜の夢』に登場する妖精の女王ですね。夫はオベロン。第2幕でティターニアはアテナイの人々を「死すべき定めの人間たち」と言及するそうで、このあたりが話の土台になっているのかなと推察します。
そもそも、皆がここへ集まるきっかけとなったのは土地の持ち主・サラが亡くなったからで、彼女は享年94歳。忽然と姿を消したソールは彼女の孫で、リッキーは玄孫(孫の孫)に当たります。それぞれ年齢は明記されていませんが歳はてんでバラバラというのは明白ですよね。
つまり、私たち人間の誰もが例外なくティターニアの言う「死すべき定めの人間たち」であり、〈定め〉が具体的にいつ訪れるかというのは人それぞれであるわけです。壮年のソールだって子供のリッキーだって然るときが来れば死ぬし、それは、「マッチの火を吹き消したか、うすいガラス板を横向きにしたように」あっというま。ただし、自ら近づいていくような愚かな真似はしないこと。歩きなさい、ティターニアの土地には背をむけて。そんなところでしょうか。
ペチコートを着たヤシ
「あれまぁ!」おばあちゃんが言った。「いったいどこで見つけたんだい? おまえのおじいちゃんの腕時計だよ。ずっとむかしになくなったんだよ、たしかわたしがまだ若かったころだったっけね……」
(P155/L8~10より引用)
なぜヤシの木の下におじいちゃんの腕時計があったのかについては2つ考えられる可能性があって、まずヤシの木の下に亡くなったおじいちゃんが埋められているパターン。これは日本ならば「桜の樹の下には死体が埋まっている」にも通ずるものがあるし、ペチコートを着せられて愉快な気分になって踊りだすというのであれば梶井基次郎のそれよりも随分不気味さはやわらぎます。
もうひとつは、おじいちゃんもまた過去にジョーと同じような目に遭ったことがあるパターン。つまりひとりでに踊るもしくは歩きだすヤシを目撃して追いかけたことがありそのとき穴に腕時計を落とした可能性です。この場合論点になるのはヤシの木のほうで、植えたあとでそうなったのか、植える前からそういうヤシだとおじいちゃんは知っていたのかが気になるところ。わざわざ育ちにくい北の地に植えたあたり、個人的には後者っぽいなという気がします。「北のほうとか行ってみたい」「ええで」みたいな。
どっちにしろ、人間のお洋服着せたらカッコよくなったから踊ってほしいなぁと思ったジョーくんも実際テンションあがって踊りだしちゃうヤシの木くん(?)もかわいいよね。
おとなりの世界
森晶麿の『キキ・ホリック』という小説を読んで以来、植物と言葉はかなり密接に結びついていると思っているのですが、哲学者ルソーが人間より植物好きだったという話を聞いていよいよ確信しているわけです。
考える人というのは最終的に植物にたどりつく。砥上裕將『線は、僕を描く』で青山くんが悩み迷いながら一心不乱に描きつづけるのも植物だし、植物を愛するデレステの相葉夕美はコミュで核心を突き良曲を唄う。
私は花とか見るのは結構好きなんだけど育てるのは面倒に感じてしまって、植物と言葉に関係性があった場合そこが自分の弱点だなとも思うんだけど、考えてみれば紙も間接的な植物じゃんね。せめて紙にはできるだけ多くの時間触れていたい。
銀のコップ
ジムくんはさぁ、宇宙じゃ1年中クリスマスだって聞いて、サンタさんのためにクリスマス・プディングをつくってあげたわけだよ。クリスマスイヴにはおうちのツリーの根本に置いてあるプレゼントを開けるよりも早く、真っ先に、サンタクロースがプディングを持っていってくれたかどうか走って確認しに行くわけ。完全にGIVER(与える人)の精神。
しかも、どうすればサンタクロースが持っていったとわかるか?というもはや自分じゃ考えても答えが得られない疑問に、空に浮かんだ虹を返事とする、とちゃんと折りあいをつけてあとはふりかえらずに走って帰るの。
だから私も、「誰もブログに反応くれない」「noteの掌編小説、営業のスキしか押してもらえない」とか言ってないでこういう大人になりたい。切実。
森の王さま
お墓にちゃんと土をかぶせよう。この方のためにできるのは、せいぜいそれくらいだから。
(P198/L9~10より引用)
せめてこの首飾りを来世に持っていけば、こちらの世でよく思われていたと思ってもらえるだろう。
(P198/L12~13より引用)
あーん、イェナちゃんも心優しいGIVERだった。GIVERしか勝たん。
たとえ幽霊であっても友達になれるよねって概念は日本の小説でも恒川光太郎『真夜中のたずねびと』にもありましたね。死者との境目、動植物との境目、母の「遺品」として遺されるべきものの境目。イェナちゃんがそういうものに縛られない子だったからこその物語なんでしょうね。一方で父親は「娘」「女」という枠組みで彼女を見ていました。
物事のグラデーションを愛する。思想としては「おとなりの世界」と似ているのかもしれない。
にぐるま城
ジュリアン・バジーニ『100の思考実験:あなたはどこまで考えられるか』(向井和美・訳)の中に「ギュゲスの指輪」という思考実験があります。
端的に言えば、この指輪をはめると透明人間になることができる。指輪の持ち主であるハーバードはこの指輪でできることを考えるのだけど、恥ずかしいことに、最初に浮かんだのは更衣室をのぞいたり盗みをはたらいたりということでした。この誘惑に抵抗しようと次になにか良いことを考えようとしますが、さっぱり浮かばない。透明人間の誘惑に、はたして自分は、どれだけのあいだ抵抗できるのだろう――?
コラムが魔女のエイリーおばさんから受け継いだ力というのも、ある意味ギュゲスの指輪といえます。たとえば、作中では人やモノを自由に大きくしたり小さくしたりができる。状況を整理してみましょう。コラムの住む町は古代ローマの砦の中造られた町で、町は今、ヴァイキングたちに侵略されようとしている。さて、コラムは一体どうするのか。
正解は、砦=町を人々ごとごっそり小さくして、荷車に載せて丘まで逃げた。洞窟の中でヴァイキングたちをやりすごし、彼らと船が激しい北風で防壁に叩きつけられてすっかりだめになってしまうと、元の場所まで戻って町を大きくして元どおりにしたのです。町の人々には、自分がなにをしたのかは一切告げない。いつもどおりに荷車を押して詩をつくるだけ。
たとえば、ヴァイキングたちを皆小さくして、踏みつけて殺してしまうことだってできたはずなんです。コラムの両親はヴァイキングの侵略者たちに殺されている。個人的な復讐を果たし町の人には感謝さえされたかもしれない。それでもコラムは町を小さくするほうを選んだ。攻めるためではなく、守るために力を使った。おごることなく。同じことがはたして自分にできるだろうか、と考えてしまうあたり思考実験的だと思った。
「たぶん今度はおまえが力を持つ番だろう。うまく使うんだよ! 町の人たちの面倒をよく見ておやり。目をひらいて、よく見るんだ。耳をすませて、よく聞くんだよ……」
(P204/L8~10より引用)
自分だったら、どう?
コラムのように力を「正しく使う」ことができるはずだと本当に自信を持って言えますか?
以上です。
個人的にはやっぱり「バームキンがいちばん!」が好きかな。大人社会の現実と子供の突拍子もない空想がちょうどよく混ざりあって共存していて。もともとキャンデス・フレミング『ぼくが死んだ日』を彷彿とさせる版元、装丁や訳者でしたが、死に対する穏やかな目線が両者は似ていたようにも感じます。死んでしまった者、遺される者、それぞれの立場に対する理解を深めるのにこの際両方どうぞ。