原田ひ香『母親からの小包はなぜこんなにダサいのか』を読みました。作品を知ったきっかけは「タイトルが絶妙」という書評だったけれど、本当に絶妙。そもそも「原田ひ香」という名前もずるい。
内容は、実家の母から送られてきた小包をテーマにした6編の短編小説集です。結婚するまで実家暮らしだったので私自身は〈母からの小包〉というものに馴染みはありませんが、六者六様の親子のありかたに不思議と自分たちを重ねるところも多かった。
第一話 上京物語
岩手から上京してきた大学生の美羽と、彼女の上京に未だ猛反対しつづける東京嫌いの母。もうウンザリと思っていたはずの、母と、故郷の思い出がたっぷりとつまったお菓子。母娘の長い戦いのゴングが鳴る。
田舎者の自分は結局、東京では何にも選べずに終わるのではないだろうか。友達もできず、すごすごと実家に帰ることになるのではないか。
(P23/L19~20より引用)
東京の大学に進学する美羽の不安、まんまで笑ってしまった。美羽はそれでも東京へ行ったけれど、私は、結局日和って地元の大学に甘んじてつまらない毎日だったな。やったあとの後悔よりもやらなかった後悔だと、 つくづく思う。誰が言いだしたのか知らないけれど。
名所といっても大きなショッピングモールくらいしかない地域にはさまれたそれ以下のベッドタウンで育ったので、個人的には、それだけで話のネタになる地元を持っている人は羨ましい。私なんて県内で名前を挙げても通じないし、「〇〇市と〇〇市にはさまれているところです」って言っても相手ピンとこない感じだし、最終的に「へー」で終わる。地元愛など微塵もない。のちに隣県へ引っ越したけど、地元とすれすれの県境なのであまり引っ越したという実感もない。愛着もない。
そんな自分が結婚を機に東京へ移り住んだものだから、最近ますます地元とか故郷ってなんだろうなと思ってしまうわけです。どうでもいいような、でも羨ましいような。とりあえず、行けるところをどんどん増やして好きなところをたくさん見つけていこう。この家で。この街で。
第二話 ママはキャリアウーマン
夫の転勤を機に、仕事を辞め北海道へついてきた莉奈。キャリアウーマンの母は、当然、娘が転勤のために東京の大手企業を泣く泣く辞めたのだと思っている。「仕事は見つかったの?」母のLINEを莉奈は無視する。寂しかった幼少時代。私は、母のようにはならない――。
レシピを見ると、ジャガイモを蒸かすか茹でて潰し、片栗粉を芋一個につき大さじ一杯くらい好みで混ぜる。少し芋の形を残してもおいしい。それを丸め、フライパンで焼いて、醤油、砂糖、みりんを同量混ぜたタレをからめる……らしい。
(P71/L10~12より引用)
こんなところでいももちのレシピ知れるなんて思わなかった。いももち好きなんですよね。居酒屋とかスーパーの総菜売り場で売ってるの見ると絶対買っちゃう。莉奈は「東京じゃ、食べたことのない味だよね」と言っていますが、私は、むしろ東京で飲んだりするようになってから知ったな。作りかたもとっても簡単そうだしあとで自分でも作ってみようかしら。
莉奈はおうちが大好きだ。
こちらに夫とともに転勤してきて数ヶ月、狭いけど新しくてかわいい部屋に住んで、楽しくてたまらない。
(P53/L7~9より引用)
というわけで、莉奈の気持ちが鬼わかるのでこの話好きです。夫が親友も兼ねてるからこれ以上友達はいらないし(対人恐怖症だし)、隅から隅まで二人だけのテリトリーだから家事も楽しいんだよなぁ。
ウチも、結婚するときとくに母親のほうが「仕事をしないで本当に大丈夫なの?」「〇〇(夫)くんの迷惑にならないの?」「将来子供ができたらあんたも働かないとうんぬんかんぬん……」などずーーーーーっと言っていたので。
言われているときは、社会能力のない自分を否定されているような気持ちになって、イライラもするし落ちこみもする。でもわかってる。本当は私のことを心配して、夫のことも心配してくれて、だから言ってくれてるんだってこと。
お母さん。私ね、お母さんの本棚にあがり症やうつ病の家族のための本がこっそりしまってあるの知ってるんだ。メールで「あなたのお母さんなんだからね」って送ってくれたこと、今でも、心の宝箱に大事にしまってあるんだ。お母さんは優しい。だから、きっと私だけじゃなく夫になってくれる彼のことも大切に想って、心配してくれたんだよね。
――そんなことを、思いださせてくれる話でした。
第三話 疑似家族
注文した野菜を、「母からの小包」と偽って恋人の前で開ける愛華。幸福な家庭で育った優しい彼と結婚できたらどんなに素敵だろう。しかし彼女は必死にかわしつつづる。彼の両親を。結婚を。自分の両親の話題を……。
嘘をついてはいけませんと私たちは親や学校から教わるわけだけどさ。愛華のような境遇の人たちに嘘をつかせてしまう人や社会も、問題だよね。「親ガチャ」なんて言葉も流行った(?)けど、両親の素性や素行、子供が一人ではどうにもできない家庭環境までもが個人の評価対象・ステータスになってしまうっていうのは社会的にどうにかしないといけないと思う。
愛華は自分に負い目を感じているから優しい人だと言っているけれど、私、というか客観的に見ても幸多は幸多で無自覚に人柄を隠れ蓑した性質の悪い圧があったと思うよ。「常識とは、18歳までに身に付けた偏見のコレクションである」と言ったのはアインシュタインだけど、自分の人生を前提にして人と接するのやめようね。
まぁ、その人生というのも言ってしまえば教育――幼少期に親から植えつけられるある種の洗脳がベースになってしまうので、大人になってから簡単にどうこうできるものでもないんですけど。脳みそが一番やわらかくてなんでも吸収できる時期にこの洗脳を受けてしまうのが生物の悩ましいところ。
なので、大人とか自立っていうのはその”洗脳”をいかに取り払うか、取り払って最後になにを選択するのかが課題なのかもしれませんね。私はなにを言っているのでしょうか。
第四話 お母さんの小包、お作りします
東京で真面目に勉強して外資系金融会社に勤めていたさとみ。けれど、妻子ある男とつきあってしまったがゆえに、仕事とお金を失ってしまった。突然の帰郷。群馬で、母はメルカリやLINEを駆使して家でつくった野菜の宅配をしていた。
そうなんだ、仮にも「お母さんのあったか小包」なのだ。そんな真心が、量産できるわけはなかったのだ。
(P168/L8~9より引用)
このブログは6年やっててうれしいことにもうすぐ年3万PVに届くところだけど、広告を入れていなくて、だから収入にならないし、サイトを訪れた人の声が直接聞けるわけでもないから成果も目で見えない。だけどそれは良いものをつくろうと思って自分がユーザーの立場になって考えたときに煩わしいと思ったものを全部排除した結果だから。この言葉が勝手に刺さりました。
私も元カレとの同棲がダメになって実家に戻ったとき、昔使ってた部屋がちゃんと面影を残したまま空けてあったこと、うれしかったな。地元とか実家って、ダサいから落ちつくみたいなとこあるよね。
だけど本当は、田舎とか都会とか、帰郷とか上京とかに関係なく、自分の居場所は自分でつくるもの。それは決して自分で見つけろと突き放しているわけではなく、自分に合った心の落ちつける場所、心を開ける人は、他の誰でもない自分にしか見つけられないから。なんだよな。
第五話 北の国から
父が亡くなり、拓也はとうとう天涯孤独になった。もちろん、厳密にいえば伯母や従兄弟たちがいるがざっくり言って天涯孤独だろう。家の片づけをしていると、ふと宅配便の伝票が重ねて置いてあるのに気がついた。差出人は同じ人で、北海道の羅臼から送られている。槇恵子。もしかして彼女は父と生き別れた祖母なのだろうか。
昔、両親の高校時代の友人が家に訪ねてきたことがあって。父も母も彼のことを高校時代からのあだ名で呼んでいて、二人がそんなふうに誰かを親しみをこめて呼ぶところを見たことがなかったので、そのときふと「お父さん」と「お母さん」じゃないときが二人にもかつてあったのだなと、子供心に感じて。
坂木司の〈ひきこもり探偵〉シリーズで、たしか鳥井が父親のことを名前で呼んでいる場面があったと思うんですけど。そのことについて鳥井が「お父さん」と形式ばって呼んでしまうと彼の個人としてのアイデンティティ―を奪ってしまう……みたいなことを言っていたのが中学生の当時なかなか衝撃的でした。
もちろん愛情も感じていたけれど、愛情ゆえの放任主義みたいな空気がウチにはあったんで、私にとって家族とのつながりは――なんていうんでしょう、透明な糸みたいな。たしかにつながっているけれど普段はあまり意識しないというか。そういうものなので、両親のことは親である以前にそれぞれが一人ひとりの個人だしなって今は認識しています。なのでわりとこの話もすんなり受け入れられました。一般的にはどうなんでしょう。成人後でも、両親には「父」と「母」であってほしいというある種強迫観念的な理想像ってあるものなんですかね。
第六話 最後の小包
母が亡くなった。しかし新幹線の中で、弓香は悲しむよりも腹を立てている。小学生のときに目撃した父の不倫は弓香の強い男性不審へとつながった。なのに大学卒業後、母は二十ほども歳の離れた「まさお」を連れてきた。母の死は今、娘である弓香ではなく夫であり息子夫婦である彼らのものになろうとしている。
そういえば、最近ナショジオでイルカについての記事を読んだのですが、おもしろいことが書いてありました。海底で魚を探すときに口先を保護するため海綿を被る行為を「スポンジング」というのですが、これは単独行動をとる社交的でないイルカに見られるもので、しかも母親から娘、垂直方向にだけ継承されるらしいんですよね。人間のみならず、母と娘というものは改めて神秘的で、かつ、難儀な関係だなと思いました。
もちろん個々の家庭環境にもよるけれど、基本的に親子関係には下地としてエディプスコンプレックスがあって、娘の場合は一時期母親を離れて父親へ愛情対象を変えるようです。私も長らくパパっ子で、母と仲よくなったのは10代になってからでした。きっかけは祖母の同居。女のコミュニティを育てるのはやはり女。あるいは女性性。
「(前略)……正直、私はインフルがちゃんと治ってからにしたら、それから落ち着いてちゃんと買い物に行って用意したらと言ったんだけど、それはまた、落ち着いたらもう一度ちゃんと用意する、でも今は、いつあの子が風邪を引くかわからないからとにかく送りたい、って言い張って」
(P258/L8~11より引用)
感動はしたけれど、彼女のように娘(子供)を優先してわざわざ小包を送ろうってことは……私は将来しないんじゃないかと思います。父に似て、自分本位な性格なので。
が、どうなんでしょう。子供が生まれたら母というものはやはり自然とそういう思考になるものなのでしょうか。そういうのを、母性というのでしょうか。今の時代、あまり「母性」なんて言葉を気安く使ってはいけない気もしますが。
というわけで、三十歳で結婚するまで実家暮らし、両親とこれといった確執がなかった私でもたくさん思うところがあったので、日本全国の〈子〉の皆さんもぜひ読んでみてはいかがでしょうか。あと一か月もすれば年末ですしね。
参考にしたサイト
道具、チームワーク、策略を駆使して漁をするイルカたち
https://natgeo.nikkeibp.co.jp/atcl/news/21/102900534/?rss